ウエツフミ(口語訳31~41)

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31,1
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上津文 三十一の綴り

ここに日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)、三十四代の彦の命は、天下を統治されました。

そして、中臣浜招之男の命(なかとみのはままねのおのみこと)、斎部八重滝の命(いみべのやえたきのみこと)、思金堅柴彦の命(おもいかねのかたしばひこのみこと)を召され、お告げになりました。

「天の祭り、国の祭りを正しく行い、豊かな道の広がる瑞々しい稲穂の国を、平和な国として祈りなさい。
そして、長寿を願い、豊かな年を授かるように祈るのだ」と命じられました。
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ここに三柱の上たちは、八百万の神々にこのように唱え、神に仕える者を選びました。

志那都上松の命(しなつのかみまつのみこと)の御祖である志那都玉垣の命(しなつたまがきのみこと)は、三百十三歳に達していたため、天の祭りの神代の務めを担わせることになりました。

また、臣の上たちの若き男たち九十六人を召し、祭りの神官とし、祭場の庭を整えました。

天津高御座(あまつたかみくら)の中心に、楮布(こうぞぬの)で作られた大和幣を立て、天津神の魂をお招きしました。

志那都玉垣の命は、礼の鈴を振り、祈りの言葉を唱え、豊穣と繁栄の祝詞を述べました。

祭りに捧げられた供物は次のとおりです。

三つ並びの花を飾った弓

三つ並びの花を飾った太刀

蚕布(かいこのぬの)の巻物

麻布の巻物

綿布の巻物

豊かな海の幸、山の幸

大きな魚、小さな魚

男神用の瓶には醸した酒

女神用の瓶には澄んだ酒

さらに、祭場には清めのための布が設けられました。
楮布で作られた八つ垂れの布を篠竹に取り付け、青と白の幣(ぬさ)を立てました。

また、菅布で作られた千垂れの裂布を篠竹に取り付け、青と白の幣を供えました。

さらに、栲布(たくぬの)で作られた百垂れの布を篠竹に取り付け、青と白の幣を供えました。

この三種の布は、神の祭りの清めのために特別に用いられました。

五百津真榊(いおつまさかき)の中央の幹には大鏡を取り付け、神の食事を供えました。
また、中枝の左右には中鏡を取り付け、上枝と下枝にも鏡を取り付けました。
木の枝先には小さな鏡を掛け、さらに瑞桂木(みずかつらぎ)には、火丹色(ひにいろ)の緒で結ばれた勾玉を吊るし、荘厳な飾りを施しました。

このように神聖な祭場を整えた後、若臣たちは笛を吹き、鼓を打ち、琴を奏で、歌いながら神楽を舞いました。

二十四人の若臣たちは、半数が鍬を持ち、半数が鎌を持ち、次のように歌いました。

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「この鍬は、私たちのものではない。
天におわします大宜津神(おおげつのかみ)が、田を耕すために授けた御鍬である。」

「この鎌は、私たちのものではない。
天におわします大宜津神が、草を刈り払うために授けた利鎌である。」

鍬と鎌を置き、手に籾を握り、次のように歌いました。

「この籾は、私たちのものではない。
天におわします大宜津神が、私たちに授けた豊かな種である。
この種が豊かに育ちますように。」

さらに、春の祭りとして、二十四人の若臣たちは松の葉を手に持ち、次のように歌いました。

「この苗は、私たちのものではない。
天におわします大宜津神が授けた御苗である。」

「この稲は、私たちのものではない。
天におわします大宜津神が愛し、大切に育てられた御苗である。」

そして、夏、秋、冬の祭りでも同様に祝詞を唱え、祭事を執り行いました。

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こうして、四季の祝祭が執り行われた。

春の祭りでは、春の神官たちが春の祝詞を唱え、夏の神官たちは夏の祝詞を、秋の神官たちは秋の祝詞を、冬の神官たちは冬の祝詞をそれぞれ唱えた。

この祝詞が終わると、八人の巫女が清らかな和幣(ぬさ)を左手に持ち、斎鈴(いみすず)を右手に持ち、笛と鼓の音に合わせて舞を奉納した。

舞が終わると、皇の命(すめらのみこと)が、楮布(こうぞぬの)の和幣を振り、八つの手を合わせて拝礼した。その時、高津の神々と明津の神々が、供物を高く掲げた。

その供物の献立は次の通りである。
真向の膳には、大秀瓦の器に赤飯を高く盛り、三つの並べられた平瓦の器に蒸し汁を、五つの並べられた平瓦の器に塩汁を、七つの並べられた平瓦の器に油煮を、九つの並べられた平瓦の器に白煮を供えた。

祝詞が終わり、神楽が終わると、皇の命は、高津の神々と明津の神々に自らの類を示された。その時、鼓を鳴らし、銅鑼を打ち鳴らすと、八十人の若臣が、奇怪な仮面をかぶり、体に藁蓑(わらみの)をまとい、異様な姿で現れた。

彼らは、神に捧げられた供物を奪おうとする仕草を見せたが、すぐに八十人の神官たちが立ち向かい、争うような舞を繰り広げた。

やがて、悪しき者たちは敗れ、倒れ伏し、仮面や衣をその場に捨て去った。そして、それらを山のように積み重ね、火を放って焼き払った。

こうして、神々への奉納の儀は終わり、神官たちは席に戻り、供物の酒と食事を捧げた後に退いた。
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31,5
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この時、御妃である炊姫の命(かしきひめのみこと)が、突然の病に倒れた。

高熱が出て、息も絶え絶えとなり、口元が歪み、下腹部が腫れあがり、息は臭く、体全体が熱を帯び、立つこともままならず、倒れ伏した。

御妃の近くに侍る者たちは、どうすることもできず、ただ涙を流し、嘆き悲しんだ。
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その時、中臣寒川の命(なかとみのさむかわのみこと)は、少名忍玉之男の命(すくなのおしたまのおのみこと)に尋ねた。

「この病はどのようにすれば治るのか?」

少名忍玉之男の命は、まず御妃の首、手、胸、足の脈を診た。そして、こう言った。

「この病は火気による病である。神の教えにある薬が必要である。」

少名忍玉之男の命は、袋から薬を取り出した。その薬は、蛍の焼き粉と、ちさの木の根皮を粉にしたものだった。

それを真酒(まさけ)で練り、御妃の口元を貴玉の緒で縛り、歯ぎしりを抑えた後、薬を注ぎ込んだ。そして、熱湯でそれを流し込んだ。

しばらくすると、御妃の命は苦しみながらも、男のような声で叫び、身を激しく悶えさせた。

侍る者たちは恐れおののいたが、中臣寒川の命は少名忍玉之男の命に問うた。

「この苦しみは薬の効き目なのか、それとも毒なのか?」

少名忍玉之男の命は答えた。

「これは毒である。」

中臣寒川の命は驚き、「なぜ毒を用いるのか?」と問うた。

少名忍玉之男の命は答えた。

「この病は火気によるものであり、放置すれば今宵にも命を落とすことになろう。だからこそ、毒をもって火気を鎮め、命を救うのである。しばらくすれば効き目が現れるだろう。」

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少名忍玉之男の命は、侍女たちに命じ、襁褓(むつき)を用意させ、御妃の裾を囲わせた。そして、涎取りの布を首元に巻きつけさせた。

しばらくすると、御妃は再び身悶えし、激しく苦しみ、侍女たちの手を握りしめた。

その瞬間、「あっ」と叫び、大量の水様の排泄物を吐き出した。

続いて何度も嘔吐を繰り返し、布が汚れた。しかし、次第に症状は落ち着き、静かに眠りについた。

翌日の昼、御妃は目を覚まし、食事を取ることができるまで回復した。八日後には、完全に回復した。
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ここに、日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)、三十四代の彦の命は、高齢によりついに神隠れされた。

その御霊は日の若宮へと還り、大御骸は大分の御宝山に葬られた。

そして、三十五代の姫の命である花姫の命(はなひめのみこと)が、天津高御座(あまつたかみくら)において、三種の神宝を抱き、天下を統治することとなった。

しかし、花姫の命は世継ぎの男子を持たず、十八歳で天の御位を兄の命に譲り、大宮に隠れた。

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ここに、日高日子波限建鵜葺草葺不合(三十六代彦の命)が生まれた。

その御名は若照彦の命(わかてるひこのみこと)であり、
御妃は三十三代の天津御子の命の御子、七瀬の命の御子である明冴姫の命(あきさえひめのみこと)であった。

また、御同胞である棹姫の命(さおひめのみこと)の御子、藤之袴姫の命(ふじのはかまひめのみこと)を迎え入れ、
さらに御同胞の高瀬の命(たかせのみこと)の御子である鵜飼之郎女の命(うかいのいらつめのみこと)を妾として迎えた。

この妾の姉である葛城姫の命(かつらぎひめのみこと)も妾とし、
また、御同胞の瀬之上彦の命(せのうえひこのみこと)の御子、近之浦姫の命(ちかのうらひめのみこと)も妾とした。

ここに、妾である近之浦姫の命の腹から生まれた御子の御名は、羽織長姫の命(はおりながひめのみこと)であった。

この御子の子孫の御名は大的野の命(おおてきののみこと)といわれた。

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向妻である藤之袴姫の命が懐妊し、大地の加護を受けながら、
臼杵の大浜辺に産殿を建て、御輿入りの儀を行い、御子を生んだ。

その御名は松照彦の命(まつてるひこのみこと)であり、大御名は
日高日子波限建鵜葺草葺不合(三十七代彦の命)と称された。

次に、妾である鵜飼姫の命の腹から生まれた御子の御名は筒刳姫の命(つつくりひめのみこと)であった。

次に、向妻である藤之袴姫の命の腹から生まれた御子の御名は松笠之男の命(まつかさのおのみこと)であった。

次に、御妃の命が生んだ御子の御名は小海乃郎子の命(おうみのいらつこのみこと)であった。

次に、妾である葛城姫の命の腹から生まれた御子の御名は矢越別の命(やこしわけのみこと)であった。
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ここに、三十六代の天津御子の命は、
児屋松木武の命(こやのまつきたけのみこと)、
中臣国処受の命(なかとみのくにとこじゅのみこと)、
表春小高川の命(おもてのはるおだかがわのみこと)、
下春金崎の命(しもはるかなさきのみこと)、
太玉利鎌広庭の命(ふとたまのとかまひろにわのみこと)、
斎部鳴時の命(いみべのなるときのみこと)、
斎部扇の命(いみべのおうぎのみこと)たちと共に、
天と国の統治を司るために相談を重ねた。

思金天津悟の命(おもいかねのあまつさとりのみこと)、
大屋那須美の命(おおやなすみのみこと)、
大土八千組の命(おおつちやちくみのみこと)、
言代須々美の命(ことしろすずみのみこと)、
この四柱の神々を召し集め、次のようにお告げになった。

「この豊かな道の国と八百の国々の島々は、
神伊邪那岐の命(かみいざなぎのみこと)と神伊邪那美の命(かみいざなみのみこと)が生み出されたものである。

その御子たちは、高天原において、昼夜を問わず八百の国々を統治しておられる。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)は八百の国々を巡り、
夜見照大神(よみてらすおおみかみ)は星の神々と共に夜の国を統治される。

天津神の教えに従い、八千の道理を子々孫々に伝えねばならぬ。

ここに、再びこの教えを書き記し、代々の訓戒を補い、天津秀庫(あまつほこ)に納めて神宝とする。」
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ここに、思金悟の命、言代須々美の命、大屋那須実の命、大土八千組の命は、
高津の神々の御言葉を畏み、二上りの山の南の踏山に大室を建てた。

速吸門(はやすいのと)の速潮(はやしお)を汲み、
唸門(うなりのと)の中潮を汲み、
橘の小門の和潮(にぎしお)を汲み、
山辺で祓いを行い、大室を完成させた。

狭依科の建(さよりしなのたけ)、
活津弥須多伎の命(いくつみすたきのみこと)に命じて、
木曽の山の欅(けやき)を伐らせ、
火を焚いて煤(すす)を取り、
さらに美濃の山の楮(こうぞ)と紙の木の皮を抜き取り、
滑石の上で叩き、
水で漉き、
楮布を作り、
それを巻き取り、神の供物とした。

また、丹波の国の磐坂時守の命(いわさかときもりのみこと)の領地で、
小野の山に落ちる鶴の羽を集め、
それを櫛にして、
髪飾りとし、
神の儀式に用いた。

さらに、四柱の神々は、大室に新たな火を灯し、
その門に清めの御幣を立て、
神々を迎えるための準備を整えた。

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また、三木の瑞枝(みつのしげきえだ)を取り、赤松の太木を薪にして火を焚いた。
三木の枝葉を移して燃やし、そこから出る燃え杭を引き出した。

その三木の枝の葉に、天の教えが文字のように浮かび上がった。

そこで天津神の太占(ふとまに)を行い、過去の出来事を示す神託を再現し、
それを見て天と地の理(ことわり)を学ぶために、多くの人々が集められた。

また、百二、三百年を超える長寿の翁たちを集め、現人(うつしびと)たち、
豊道之原(とよみちのはら)の民たちも集め、
過去の教えを言葉にして伝えた。

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ここに、科長大星の神(しながおおぼしのかみ)、燿火大星の神(かがやきほのおぼしのかみ)、
水眞大星の神(みずまおおぼしのかみ)、埴瓮大星の神(はにいのおおぼしのかみ)が、
朝日の輝きのごとく天に昇り、紫の雲を纏い、
大室の床の辺(まとろべ)に現れ、天津神の神託を告げた。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)は東の殿にいらっしゃり、西へ巡り、
夜の国を守る夜見照大神(よみてらすおおかみ)と交代する。

このとき、星々の神々も定められた軌道を巡り、昼と夜の秩序が生まれた。
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ここに四柱の神々は、楮布(こうぞぬの)を漉いて紙とし、
それを天の教えの記録として残した。

金壺に欅の煤(けやきのすす)を入れ、水で溶き、
鶴の羽で作られた筆を用いて天の教えを書き記した。

天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)から面足大神(おもたるのおおかみ)まで、
天津神の理(ことわり)を定め、高天原の神々と豊道之原の神々を祀り、
未来永劫に伝えようとした。

二千七百三十九柱の星神が、この記録の中にその名を刻まれた。
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次に、天の明るい世を治める神として、
伊邪那岐の命(いざなぎのみこと)と忍穂耳の命(おしほみみのみこと)が祀られた。

また、国の明るい世を治める神として、邇々芸の命(ににぎのみこと)と、
三十六代の天津御子の命が祀られた。

さらに、須佐之男の命(すさのおのみこと)、大穴牟遅の命(おおなむぢのみこと)、
宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)、天の種津の神(あまのたねつのかみ)も、
国の繁栄を祈る神として祀られた。

これらの神々の名は、天と地の記録に書き記され、
子々孫々に伝えられることとなった。

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この書は、過去の大神たちが口伝えに語った教えを記し、
五十音の清き言葉と、七十二の文字で整理された。

天の祭りと国の祭りの教えを記録し、
それを国々の指針とするため、天と地の間に掲げられた。

この教えは代々引き継がれ、国々の指導者がこれを学ぶことで、
秩序を守るための道しるべとされた。

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このとき、天津御子の命は百余歳になり、
耳が遠くなったため、阿蘇の千穂に宮を建て、隠居された。

その後、日高日子波限建鵜葺草葺不合(三十七代彦の命)が
天下を治めることとなった。

御妃は三十三代の天津御子の孫である久々姫の命(くくひめのみこと)の御子、
糸搓姫の命(いとこりひめのみこと)であった。

この姫の妹である八千代姫の命(やちよひめのみこと)を正妻とし、
さらにその妹たちである勝草姫の命(かつくさひめのみこと)と
吉原姫の命(よしはらひめのみこと)を妾とした。

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天津御子の命が十二歳になっても、
御妃や妾たちとの間に子が生まれなかった。

そこで天津神に祈りを捧げたところ、十五歳の秋に、
妾である勝草姫の命が懐妊し、
斎(いわい)を整え、大分の黒の小浜に産殿を建てた。

そして、天津日嗣の御子が誕生した。
その御名は天津祝詞子の命(あまつのりとこのみこと)であり、
大御名は日高日子波限建鵜葺草葺不合(三十八代彦の命)であった。

続いて、妾である吉原姫の命の腹から生まれた御子の御名は高姫の命(たかひめのみこと)であり、
大倉姫の命(おおくらひめのみこと)とともに生まれた。

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ここに天津御子の命(あまつみこのみこと)は、
「国を巡視しよう」と仰せになり、高津の神々と明津の神々に相談を持ちかけられた。

児屋祭武の命(こやのまつりたけのみこと)は、
「それは大変良いことです。しかし、民たちが驚かぬよう準備が必要でしょう」と答えた。

天津御子の命は了承され、出立の準備を整えられた。

ここに、中臣眞添城の命(なかとみのまそいきの命)、
表春日添斧の命(おもてのはるひそえの命)、
太玉沢守の命(ふとたまのさわもりの命)、
明玉塩留の命(あかるたまのしおどめの命)、
磐柝武三降の命(いわたくのたけみくだりの命)、
金山七緒の命(かなやまのななおの命)、
速玉八束手の命(はやたまのやつかでの命)、
波限車立の命(はぎりくるまたての命)、
萱野波瀬の命(かやのはせの命)、
御桙屋作の命(みはぼやつくりの命)、
天熊原底の命(あめのくまはらそこの命)、
この十柱の上たちとその家族二十人を従えて、国巡りの旅を始められた。

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天津御子の命は、御輿を用いず、十柱の上たちと共に馬に乗って旅をされた。

すると、大雷花雲の命(おおいかずちのはなぐものみこと)が百人の親族と共に従い、
御後ろを守る役目を務めた。

大分の御宝の宮に入られ、中津に進まれると、
国の民たちはこぞって天の垂り輿(あめのたるりよ)を造り、
天津御子の命を迎えようとした。

彼らは供物を携え、神歌を歌いながら輿を清め、
道中に千垂幡(ちしでのはた)、千幡(ちばん)を掲げ、
歓喜に満ちた行列を作り、御伴を務めた。
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31,22
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天津御子の命は穴門(あなと)の豊浦の宮に到着された。

そこで建雲根鵜飼の命(たけくもねうかいのみこと)が、
膳を整え、多くの料理人を招き、盛大な宴を催した。

朱塗りの大膳に、漆塗りの器や平瓮(ひらか)を用意し、
美しい飾りを施した。

供えられた料理には、
新鮮な海の幸、山の幸、様々な味付けが施された野菜や魚が並んだ。

また、醸したばかりの濁酒、清酒、甘酒が用意され、
甘味や酸味、苦味など、あらゆる味覚を取り揃えた。

天津御子の命はこれらの料理を大いに賞賛し、
「これは神々の教えを受け継ぐ素晴らしい宴である」と仰せになり、
この料理の作り手たちに褒美を与えられた。

宴の場では、音楽や舞が奉納され、
男たちは太鼓を打ち鳴らし、女たちは琴を奏でた。

天津御子の命はこれを大いに楽しみ、
「このような宴が代々続くように」と命じられた。
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31,23
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天津御子の命は国々を巡られ、
伊勢津(いせつ)の安濃(あの)のほぎ山の宮代(みやしろ)に入られた。

そこへ、越建清之現読久々訓の命(こしのたけきよのうつよくくのことのみこと)の使者、
小国の鞠蹴麿(おぐにのまりけまろ)が速馬に乗り、急ぎ駆けつけた。

彼は天津御子の命に申し上げた。

「遠流志(とおるし)の国の賊どもが昨年より現れ、
村々を襲い、田畑を荒らし、民の作物を奪っております。

彼らは今年も再び千斛(ちこく)もの穀物を要求し、
多くの小舟と共に大船五十隻を連ねて海岸に迫っています。

どうか、この状況を収めるためにお力をお貸しください。」
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31,24
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ここに天津御子の命(あまつみこのみこと)は、大雷花雲の命(おおいかずちのはなぐものみこと)を召し、
「汝、この国の乱れを鎮めよ」と命じられた。

大雷花雲の命は「承知しました。しかし、遠流志(とおるし)の国の賊たちは千万人とも聞きます。
それに対し、我らの兵は二十人しかおりません。果たして勝てるでしょうか?」と尋ねた。

天津御子の命は「汝には神の加護がある。たとえ少人数であっても、神のご加護があれば、
敵を討ち破ることができるであろう」と励まされた。

ここに、大雷花雲の命は天津神に祈り、神託を受けた。

その神託には、「大伴の兵を率い、敵を打ち払え。天津神は必ず汝を助ける」とあった。

大雷花雲の命はこれを信じ、十柱の軍人を伴い、
国建清之久久訓の命(くにたけきよのくくのことのみこと)とともに戦の準備を整えた。

彼らは速く軍勢を整え、遠流志の国へ向かった。

敵は千万人とも言われる大軍を率いており、
五十隻を超える大船を並べ、陸へと押し寄せていた。

賊たちは次々と上陸し、民の家を襲い、田畑を荒らし始めた。

ここに、大雷花雲の命は、兵たちに「敵の動きをよく見て、
機を見て一人残らず討ち取れ」と命じた。

天津神に祈り、兵たちを鼓舞し、「今こそ天津神のご加護を賜り、
敵を打ち破る時である」と声を上げた。

その時、天が鳴動し、大地が揺れた。

雷鳴が轟き、閃光が走ると、大地より剣のように光るものが現れ、
敵の軍勢に襲いかかった。

敵は驚き、混乱し、逃げ惑い、次々と斬り倒された。

大雷花雲の命は軍勢を率い、逃げる敵を追撃した。

国建清之久久訓の命の軍勢もこれに加わり、
敵を討ち、千万人の賊をことごとく討ち取った。

残ったわずかな者たちは捕らえられ、縄で縛られた。

天津御子の命は「この者たちを生かして返せば、
再び国に害をなすだろう。ゆえに、一人残らず処し、
彼らの船に亡骸を積み、南風が吹く時に流し放て」と命じた。

こうして遠流志の賊たちは滅ぼされ、天津御子の命の威光はさらに広がった。

国は再び平穏を取り戻し、民たちは天津御子の命の徳を讃え、
豊道之原(とよみちのはら)は安泰となった。

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31,25
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ここに、大地が大きく揺れ動き、雷鳴が轟いた。

すると、大地の奥深くから、稲光のように輝く剣が現れ、
それはまるで焼き鎌や焼き太刀のように見えた。

その光が敵の軍勢を切り裂き、千万人もの賊たちを瞬く間に打ち倒した。

賊たちは血を吐きながら倒れ、一人また一人と息絶えていった。

その間、民たちは恐れおののき、戦いの様子を固唾を呑んで見守った。

ここに、大雷花雲の命(おおいかずちのはなぐものみこと)の軍勢は、
この機を逃さず、残る賊を追い詰め、
一人残らず討ち取るべく、次々と剣を振るった。

捕えた者たちは皆、縄で縛られ、その数は一千人を超えた。

しかし、遠流志(とおるし)の国の王は見つからず、
賊たちの中にその姿はなかった。

兵たちは、「王はこの混乱の中、すでに逃げたのではないか」と口々に言った。

ここで、天津御子の命(あまつみこのみこと)は神託を受けた。

「この捕えた者たちを生かして返せば、必ずや後の世にまた国を乱すであろう。
ゆえに、一人残らず処し、亡骸を船に乗せ、
南風が吹く時にその船を流し放て。
そうすれば、彼らの国に恐れが生まれ、
二度とこの国に害をなすことはあるまい」との御言葉であった。

ここに、天津御子の命はその神託に従い、
捕えた賊たちをすべて処し、その亡骸を船に積み込んだ。

そして、南風が吹き始めると、その船を海に流し放った。

その船は風に乗り、遠流志の国へと流れていった。

その後、遠流志の国の民たちはその船を見て、
「これは神の裁きである」と恐れをなし、
それ以来、二度とこの国に攻め入ることはなかった。

ここに、天津御子の命の威光はますます広まり、
国は平穏を取り戻し、民たちは安心して暮らせるようになった。

また、人々はこの出来事を後世に語り継ぎ、
天津御子の命の偉業を称えたのであった。

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31,26
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ここに、将軍である大雷花雲の命(おおいかずちのはなぐものみこと)と、
国建清之久久訓の命(くにたけきよのくくのことのみこと)は、
戦いを終えて伊勢津の国に戻り、天津御子の命(あまつみこのみこと)に報告を申し上げた。

その頃、天津御子の命は、狭依科(さよりしな)の国に向かおうとされていた。

国の覇者である精高の上(せいたかのかみ)である石津彦の命(いしづひこのみこと)、
石津姫の命(いしづひめのみこと)は、
浅間山に木や竹、柴を用いて宮を築き、大きな傘のような幕を張り、
天津御子の命を迎える準備を整えた。

また、八人の少女が舞を奉納するために集められ、
彼女たちは太鼓を打ち鳴らし、
竹琴の三弦を奏でながら、ひざまずいて歌を歌った。

天津御子の命はその光景をご覧になり、大いに喜ばれた。
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31,27
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次に、天津御子の命は、常陸の国に向かわれた。

この国の人々は、幡を立て、鳴り物を打ち鳴らし、
天津御子の命を迎えるために斎(いつき)の儀式を行った。

国の覇者である精高の上、大野狐彦の命(おおのきつねひこのみこと)、
大野狐姫の命(おおのきつねひめのみこと)は、
刑部(おさかべ)の地に宮を建て、その前に秀門屋(ひでもんや)を連ね、
軒には清らかな花を飾り、門の前には門代(かどしろ)を設け、
天津御子の命を迎える準備を整えた。

また、迎えのために盛大な宴が開かれ、
美味なる料理が供され、多くの人々が集まった。

ここで、大雷花雲の命と清之久久訓の命は、
国建八玉差別の命(くにたけやたまさしわけのみこと)の館へと赴き、
国の現状について詳しく報告した。

その後、天津御子の命は、刑部の宮へと入られ、
遠流志(とおるし)の軍勢との戦について語られた。

ここに、上津文(うえつふみ)三十一の綴りが完結した。

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32,1
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ここに、日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)三十八代彦の命が、天の下を巡幸され、陸奥の国にいらっしゃった。その際、多賀の山辺に大宮を建ててお迎えし、国を安定させられた。

そのとき、陸奥の国の標葉(しめは)の国の宇良の海の漁人たち――宇良の寒八郎(うらのかんぱちろう)、玉部の鶴麿(たまべのつるまろ)、ゆがしの稲太郎(いなたろう)――が大宮に参上し、訴えた。

「我々三人は海に出て漁をしておりましたが、突然強い旋風が吹き荒れ、櫓(ろ)、櫂(かい)、舵(かじ)を制御できず、広大な海原へと流されてしまいました。そして三日ほど漂流した後、一つの島が見えました。

急ぎ船を漕ぎ寄せてその島に上陸し、島の内部を探索しました。その島は広く、木々が生い茂り、山の斜面や岩の肩のあたりに穴が穿たれ、そこに人々が住んでいました。

そこで彼らに話しかけましたが、言葉が通じませんでした。彼らも我々を奇異の目で見つめ、ただ高らかに笑うばかりでした。

島は広大でしたが、人々はわずか五十人余りで、そのうち男は二十人ほど、女は三十人足らずでした。彼らの衣服は大海魚の皮を剥いで木の葉とともに縫い合わせたものであり、食べ物はもっぱら海の魚でした。

彼らは漁をするとき、皆裸になり海へ入りました。海の中を自由に泳ぎ、魚を素手で捕らえ、大小を問わずその場で引き裂き、骨を取り除き、水草の葉で包んで三日ほど海水に浸して食べるのでした。

また、水は岩山の合間から湧き出る清水が多くありました。

我々はこの島を開拓し、島の人々を救済し、国として確立されるようお願い申し上げます。」
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32,2
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ここに、天津御子の命(あまつみこのみこと)はこの話をお聞きになり、涙を流されて言われた。

「なんと哀れなことだろう。彼ら島の人々は、日々どれほど辛い思いをしていることだろうか。」

そう言い、大土国幸の命(おおつくにさきのみこと)に向かってお命じになった。

「そなた、急ぎ行って、その島の人々を助け、彼らを現人(うつしびと)と同じように導き、安定して暮らせるようにしてやりなさい。」

ここに、大土国幸の命が、海の漁人――宇良の寒八郎、玉部の鶴麿、ゆがしの稲太郎――に尋ねた。

「お前たちはどこへ流されたのか?」

漁人たちは答えた。

「その島の在り処はわかりません。しかし、我々は陸奥の国の標葉(しめは)の縄浦(なわのうら)の里を出て船を出し、旋風は北東の風でした。思うに、南西の方向に流されたのでしょう。ですから、遠津海(とおつみ)か无邪津海(むやつみ)の南方にあるのではないかと思います。」

ここに、中臣櫓装の命(なかとみのろよそいのみこと)、太玉沢守の命(ふとだまさわもりのみこと)、思金大富の命(おもいかねのおおとみのみこと)が天津御子の命に申し上げた。

「漁人たちは、その島を確かに見たのでしょうか?」

「はい、間違いなく見ました。」

ここに、天津御子の命は御輿を遠津海にお還しになられた。
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32,3
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故に、四十人の臣たちも共に伊豆の那賀(なか)の国の浜へ向かい、そこから島を探すこととなった。彼らが最初に到着した場所を「かむす崎」と呼んだ。

しかし、そこでは目当ての島を見つけることができなかったため、それぞれ船に乗り込み、さらに海路十里ほど進んだ先の小さな島にたどり着いた。

ここで再び議論が交わされ、この島が神々の集まる島であると考え、「神集(かみあつ)島」と名付けた。後世には「神集め島」とも呼ばれるようになった。
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32,4
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さて、天津御子(あまつみこ)の命は、神集(かみつど)島の南の方角を眺められ、大海原の彼方に、まるで器のような形をしたものが浮かんでいるのを御覧になられた。

そこで天津御子の命は、高津上(たかつかみ)たちと共に、そのものをじっくりと見定められ、「あれこそが、あの島に違いない」とおっしゃった。そして、すぐさま大土国幸(おおつちくにさち)の命に命じられた。

「八十人の工人(たくみびと)、八十人の山狩人(やまかりびと)、八十人の鍛冶人(かじびと)を引き連れて、その島に渡れ。そして、彼らが今いる場所に家を建て、住めるようにしてやれ」と命じられた。

また、天津御子の命は、上の弟(あがのいろね)の大土狭咋(おおつちさくい)の命と、その夫人である大土咲姫(おおつちさくひめ)の命に、八十人の大御田族(おおみたぞく)を伴わせ、豊種津物(とよたねつもの)の実や種を多く持たせ、田作りのための道具も準備させ、さらに、十匹の雄雌の馬、十匹の雄雌の牛を持たせた。そして、「これらを使い、種津作り(たねつくり=農耕)の技術を教えよ」と命じられた。

さらに、奥津蓼科彦(おきつたでしなひこ)の命と、その夫人である蓼科姫(たでしなひめ)の命にも、八十人の大御田族を伴わせ、米・麦・玉粟(たまつぶ=粟の一種)を千斛(せんこく=大量)積み込ませた。そして、「飯を炊く道具、菜を煮る鍋や釜を多く持たせ、朝餉(あさげ)、昼餉(ひるげ)、夕餉(ゆうげ)に欠かせない汁や粥を作る方法を伝えよ。また、未醤(いまだし)作り、醤油作り、濁酒(にごりざけ)作り、清酒作りの技術を伝え、食事の作法を教えよ」と命じられた。

続いて、棚機八重石(たなばたやえいし)の命と、その夫人である八重姫(やえひめ)の命にも、大御田族を多数伴わせ、さらに、繭蚕種(まゆごもく=蚕の卵)、桑木の苗、麻の種、綿の種を多く持たせた。そして、「これらを植え育て、衣類を作る技術を伝えよ」と命じられた。

こうして、開拓を担う者たちは、すぐさま御船に乗り、大船五隻にあらゆる道具を積み込み、陸奥(みちのく)の国の海漁人(あまびと)三人を案内役として同行させ、出発した。

その五隻の船が出航すると、帆を張った途端に北風がゆるやかに吹き始め、やがて強くなり、器のように見えていた島に無事到着することができた。

そこで、開拓に向かった臣(おみ)たちは、皆そろって上陸した。

この様子を見た島の住人(穴人=あなびと)たちは、恐れをなしてすぐに穴の中へ逃げ込み、柴戸(しばど=木の枝で作った扉)をしっかりと閉ざしてしまった。

そこで、開拓の臣たちは、その穴の前に立ち、こう呼びかけた。

「我らは汝たちを助けるためにここに来た。早く出てこい!」

しかし、穴人たちは何も応えず、ただ中にうずくまっているだけだった。

開拓の臣たちは、「彼らには言葉が通じないのだろう」と考えた。そして、この島の浜辺にすぐさま竈(かまど)を掘り、米を炊き、菜を煮込み、汁を作り、食事の支度を始めた。

皆が食事をしていると、一つの穴から穴人が戸を少しだけ開き、中の様子をうかがった。そして、人々が食事をしているのを指さし、何かを訴えているようだった。

開拓の臣たちは、それを見て、「彼らも食べたがっているのだな」と理解し、その穴人を手招きして呼び寄せた。そして、その者の手を取り、食べ物を分け与えた。

穴人は、その食事を口にすると、とても美味しそうに食べた。そして、食べ終わると、自分の穴の方を指さし、「残っている仲間にも食べさせてほしい」と訴えた。

開拓の臣たちは、それを見て互いに頷き合った。そして、その穴人は、自分の穴へと戻り、数人の仲間を連れて再びやってきた。

このようにして、少しずつ穴人たちは開拓の臣たちに心を開き、次々と集まるようになった。

ここで、開拓の臣たちは、彼らに言葉を教えようとした。しかし、穴人たちはまだ言葉を知らず、なかなか思うように伝わらなかった。

それでも、日を追うごとに少しずつ理解し始め、彼らの言葉と開拓の臣たちの言葉が、少しずつ交じり合っていった。

こうして、大土国幸の命、その夫人・幸姫の命、大土狭咋の命、その夫人・佐久姫の命、沖津蓼科彦の命、その夫人・蓼科姫の命、棚機八重石の命、その夫人・八重姫の命の八柱(やつはしら)の上(かみ)たちは、穴人たちを導き、開拓を進めた。

穴人たちは、男女合わせて184人いた。そして、彼らをそれぞれ家族ごとに分け、住まいを建てて住まわせた。家の数は32軒になった。

このようにして、穴人たちは家を持ち、生活の基盤を整えていった。そして、衣服を作る道具、食事を作る道具、農業の道具など、必要なものをすべて与え、生活の技術を一つひとつ教えていった。

この技術の伝承は、「三つの根訓(みつのねくん)」と呼ばれた。

200日が経ち、開拓の臣たちは、穴人たちを国人(くにびと)として迎え入れ、彼らを支えるための牛や馬を山の南に放し、育てさせることにした。

このことから、この山は「まこぶし山」と呼ばれるようになった。

そして、3年が経ち、大土狭咋の命とその夫人・佐久姫の命はそのままこの地に留まった。一方、残る六柱の上たちは、本国へと帰還し、天津御子の命に開拓の成果を報告した。

ここに、大土狭咋の命と佐久姫の命は、この島の「覇精高(はせたか)の上」として国を治めることとなった。
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32,5
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ここで、天津御子(あまつみこ)の命は、臣(おみ)たちと共に、神集島(かみつどしま)から御船に乗り込み、建日(たけひ)の小門(おど)へと戻り、そこに船を泊められた。
そして、そのまま臼杵(うすき)の大宮(おおみや)へと御輿入り(みこし入り)なさった。

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32,6
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その後、天津御子の命――すなわち、日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひこたかひこなぎさたけうがやふきあえず)三十八代彦の命は、長年の歳月を経て御齢(みよわい)を重ねられ、大いなる年を迎え、熟し豊かな時を過ごしておられたが、ついに病を得られた。

そして、この年のうちに、天津神宝(あまつかむだから)を高御座(たかみくら)に捧げ、日嗣(ひつぎ)の御子にその務めを託された。そして、日の若宮(わかみや)へとお還りになった。

その御骸(みむくろ)は、大分(おおいた)の御宝山(みたからやま)に、慎み深く葬られた。

ここに、日高日子波限建鵜葺草葺不合 三十九代彦の命が、産御名(うみのみな)を神足斎足彦(かみたりいみたりひこ)の命と申し上げ、天の下を治められることとなった。

三十九代彦の命が最初に迎えられた妃(きさき)は、夏姫(なつひめ)の命であり、彼女は三十六代の天津御子の命の御子であり、聲高彦(こえたかひこ)の命の御子であらせられた。

また、向妻(むかいづま)として香取姫(かとりひめ)の命を迎え、御妾(おんめかけ)として尾乃上姫(おのうえひめ)の命を召された。

さらに、側の御妾として町姫(まちひめ)の命を迎えた。

これらの三柱(みはしら)の姫御子(ひめみこ)たちは、いずれも三十七代の天津御子の御子である高市彦(たけちひこ)の命の御子姉妹であった。

故に、長姉(おさね)の命は向妻に、中嬢(なかのおとめ)は御妾に、妹(いもうと)は側の御妾として迎えられた。
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32,7
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ここに、御妃である香取姫の命が御懐妊され、大土(おおつち)・小土(こつち)を取りまとめ、神の加護を受け、霊(たま)を清め、慎み深く過ごされた。

そして、臼杵(うすき)の大浜(おおはま)に産宮(うぶみや)を建て、御輿(みこし)を入れられ、ついに御子を産まれた。

その御子はとても美しく、産御名(うみのみな)を神立姫(かんたちひめ)の命と申し上げた。

大御名(おおみな)は、日高日子波限建鵜葺草葺不合 四十代姫の命とされた。

次に、館姫(たちひめ)の命が生まれた。

また、御妾である尾乃上姫(おのうえひめ)の命の御腹(みはら)から生まれた御子の名は、磐屋姫(いわやひめ)の命であった。

次に、天城姫(あまきひめ)の命が生まれた。

次に、常世姫(とこよひめ)の命が生まれた。

次に、佐久姫(さくひめ)の命が生まれた。

次に、向妻である香取姫の命の御腹より生まれた御子の名は、富姫(とみひめ)の命と申し上げた。

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32,8
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ここに、天津御子(あまつみこ)の命は、高津上(たかつかみ)、明津上(あかつかみ)、清津上(きよつかみ)、厳上(いかつかみ)、並上(ならびかみ)たちと共に、過去の教えや儀礼に則り、神々の御座(みくら)の幸いに仕え奉った。

そして、日を重ねるごとに、この地に生きる青人草(あおひとくさ)――すなわち、人々が楽しみ喜ぶようにと考え、各々の職務に励まれた。

天津御子の命をはじめとして、八百万(やおよろず)の臣(おみ)たちは、大進田(おおしんでん)、小進田(こしんでん)に分かれ、自らが農作業に従事し、天の祭り、国の祭りに仕え奉り、収穫物の供えを整えた。

しかし、ここで、国々の覇精高(はせたか)の上(かみ)、すなわち領主たちは、翁(おきな)たちと共に泣きながら、高千穂(たかちほ)の大宮(おおみや)へ参上し、こう申し上げた。

「国内のすべての人々――年老いた者も、若者も、皆が苦しんでおります。朝の食事も、夕べの食事も、ろくに取れず、涙を流して嘆いているのです。」

そこで、天津御子の命は問いかけられた。

「それは、いったい何ゆえであるのか?」

すると、覇精高の上たちは答えた。

「公(きみ)の詔(みことのり)により、国の制度が変わり、荷前(にのさき)の供え物が止められたことが原因なのです。それゆえ、人々はこのように苦しんでおります。」

これを聞かれた天津御子の命は、臣(おみ)たちと共に、天津神(あまつかみ)に太占(ふとまに)を立て、神託(かみのおつげ)を仰がれた。

すると、天津神たちはこう告げられた。

「荷前の供え物が多すぎるゆえに、人々の暮らしに適していないのだ。よって、初穂(はつほ)の供えを減らし、少しの献上とせよ。」

天津御子の命は、覇精高の上たちと翁主(おきなぬし)たちに、この神の言葉を伝えられた。

すると、覇精高の上たちや翁主たちは、皆歓喜し、喜び踊るようにして、それぞれの国へ帰っていったのであった。
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32,9
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ここに、天津御子(あまつみこ)の命は、広鉾焼野(ひろほこやけの)の命、明玉鐸玉(あかるたまたくたま)の命、白歯若日足(しらはわかひたる)の命、村雲大麻屋(むらくもおおぬさや)の命、日鷲楢手建(ひわしならてたけ)の命、積羽櫛毛(つみはくしま)の命、剣田主(つるぎたぬし)の命、穂日揺戸(ほひゆると)の命、武市長押彦(たけいちながおしひこ)の命、これら九柱(くばしら)の神々を内禰(うちね)の遊び人として定められた。

そして、**「こさぢちとせ(幾千年の意)の国」**に遣わし、種津作り(たねつくり)に励む農民たちを守護する役目を与えられた。

また、稚津見風凪(わかつみかぜなぎ)の命、頬那芸潮翁(ほほなぎしおおきな)の命、萱野荒高(かやのあらたか)の命、狭土進田族(さづちしんでんぞく)の命、苫彦雲澄(とまひこくもずみ)の命、水上堰富(みずかみせきとみ)の命、闇戸鹿追(くらとしかおい)の命、これら七柱(ななばしら)の神々を足尼(あしね)の遊び人として定められた。

彼らも同じく、こさぢちとせの国に派遣され、種津作り(農業)を担う人々を保護し、農業の発展を支えるよう命じられた。

また、内禰(うちね)と外禰(そとね)には、**檜扇(ひおうぎ)と貴玉(うずたま)**を与え、貴玉には火丹色(ほにいろ)の八垂り房(やたれふさ)を飾り付けた。

畳み扇(たたみおうぎ)は常に持ち歩くものとし、決して手放してはならないと命じられた。

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32,10
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また、五人の臣の上たち(高官たち)には、「衽衣(おくみごろも)」 を着けることを命じられた。
さらに、彼らは**「太刀を決して手放してはならない」**と定められた。
また、小太刀は常に携帯し、並べて置くようにすることが決められた。

また、臣の上たちの女たちは、外を歩く際には必ず**「襲(かさね)」を着るように命じられた。
一方で、現人(あらひと=一般の人々)の女たちは、古くからの習わしに従い、「綿膨(わたぼうし)」**を被るように決められた。

道を歩く際には、それぞれが 「左側によける」 こととし、
馬を引く者も牛を引く者も、同じように左へ避けることを心得るように命じられた。

壮犬(さかりの犬)は、各家ごとに大切に飼うようにし、
牛や馬もまた、山牧(やままき)に放牧することを定めた。

また、臣の上たちの家の周りや、国の覇精高(はせたか=有力者)の家の周りには、それぞれに門代(かどしろ)を立てることを命じられた。

さらに、現人(一般の人々)の家でも、年の始めの「むつび月(旧暦1月)」には、千草(ちぐさ)を用いて清めた門代を立てることとした。

また、臣の上たちも、現人も、すべての者がそれぞれの
「遠津祖(とおつそ=遠い祖先)」 と 「近津祖(ちかつそ=近い祖先)」 を
毎月欠かさず祭る ことを定めた。

これによって、「天津大神(あまつおおかみ)の天の祭り」 と共に、祖先を祀るようになった。

次に、「むつび」から始まる祭りの日の名前が定められた。

むつび(六日) → 祭りの始まりの日
けさり(二日) → 祭りの清めの日
いやよ(三日) → 祭りの祈りの日
うべか(四日) → 祭りの誓いの日
さなエ(五日) → 神々への報告の日
みなつ(六日) → 収穫と豊穣の願いの日
ふくみ(七日) → 神々の祝福を受ける日
はやれ(八日) → 祭りの舞の日
なよな(九日) → 祖霊に感謝を捧げる日
かなめ(十日) → 祭りの締めくくりの日
しふる(十一日) → 来年の豊穣を願う日
しはつ(十二日) → 祖霊への最後の祈りの日
この十二の日ごとに、斎(いわ)い祭ることを決めた。

また、次の七つの職業の人々が、それぞれの生業(なりわい)を忠実に果たすように命じられた。

大御田族(おおみたぞく) → 農耕を司る人々
工人(たくみ) → 工芸や建築を司る人々
鍛冶人(かじびと) → 金属加工を司る人々
商人(あきびと) → 交易を行う人々
海漁人(あま) → 漁業を司る人々
山狩人(やまかりうど) → 狩猟を司る人々
物人(ものひと) → さまざまな職を持つ人々
これらの人々が、それぞれの生業に誠実に仕えることで、国の繁栄がもたらされると定めた。
そして、「安国(やすくに)」として国が平和で満ち足りた状態となるように努めるべきであると命じられた。
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32,11
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ここに、日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひだかひこなぎさたけうがやふきあえず)四十代姫の命(しじゅうだいひめのみこと)、
産御名(うみなのみな)を 「神立姫の命(かみたちひめのみこと)」 と申し上げた。

この神立姫の命が天下を治めるにあたり、次の高津上たち(たかつのうえたち)が重要な議論を行った。

児屋要処(こやかなめどころ)の命
斎部湯守白楯(いみべゆもりしらたて)の命
太玉磐之男(ふとたまいわのお)の命
思金滝田(おもいかねたきた)の命
表春功(おもてはるいさお)の命
下春端井田彦(しもはるはしいだひこ)の命
彼らは天津御子(神立姫の命)と議論を交わし、「世嚮男(よさきお=次の後継者)」 を決めることとした。

ここで、三十八代の天津御子の命の御子、科吊彦(しなたるひこ)の命と科吊姫(しなたるひめ)の命の御子である「神館之男(かみたちのお)の命」 を、
世嚮男として奉ることが決定された。

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32,12
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天津御子の命(あまつみこのみこと)は、御身に御子を宿され、
その御子を大土(おおつち)・小土(こつち)と共に安んじ、
神のご加護を受けながら、霊妙にして神聖なる環境にて育まれた。

ここに、大分(おおいた)の黒の小浜(くろのこはま)に産宮(うぶみや)を建立し、
その神聖なる宮にて御子をお産みになられた。

この御子の御名は、「神立広幡五十足彦(かみたちひろはたのいそたりひこ)の命」 と名付けられた。
また、この御子は天津日嗣(あまつひつぎ)の御子にして、天の御位を継ぐ方であるため、
大御名(おおみな)として、

「日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひだかひこなぎさたけうがやふきあえず)四十一代彦の命(しじゅういちだいひこのみこと)」

と申し上げられた。

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32,13
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ここに、四十代の天津御子姫の命(神立姫の命)は、
七十八年の間、天下を統治され、
三種の神宝(みくさのかんだから)を天津高御座(あまつたかみくら)に奉納し、
高天原の日の若宮(ひのわかみや)へとお還りになられた。

その御遺体(おんみかし)は、大分の御宝山(みたからやま)に
厳かに葬られた。

ここに、「日高日子波限建鵜葺草葺不合 四十一代彦の命」 (神立五十足彦の命)は、
三種の神宝を継承され、神訓(かむくん)・霊訓(たまくん)を遵守し、
天津大神たちを高津大殿(たかつのおおとの)にお祀りし、
天下を治められることとなった。

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32,14
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先に、三十九代の天津御子の命の御子である、
「富依姫(とみよりひめ)の命」 を妃とされた。

また、三十八代の天津御子の命の御子である、
沖威建(おきたけたける)の命とその夫人である佐和姫(さわひめ)の命の御子、
「滝道姫(たきみちひめ)の命」 を向妻(むかいづま)として召された。

さらに、沖威建の命の御子である、
「稚武(わかたけ)の命」「吉姫(よしひめ)の命」の御子である、岸辺之郎女(きしべのいらつめ)の命 を、
御妾(みめ)として召された。

ここに、御妾である 「岸辺之郎女の命」 の御腹に生まれた御子の御名は、

「吉野姫(よしのひめ)の命」

次に、房姫(ふさひめ)の命

次に、向妻 「滝道姫の命」 が御身ごもりになり、
大土(おおつち)・小土(こつち)と共に安んじ、
神のご加護を受けながら、霊妙にして神聖なる環境にて育まれた。

そのため、臼杵の大之浜(おおのはま)に産宮(うぶみや)を建立し、
神聖なる宮にて御輿(みこし)入りし、御子をお産みになられた。

この御子が誕生される時、火丹鶴鳥(ひにたんつるどり)が大空を翔けり飛び、
そのため、誕生した御子の御名を

「鶴舞姫(つるまいひめ)の命」

と申し上げ、大御名は

「日高日子波限建鵜葺草葺不合 四十二代姫の命」

と奉られた。
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32,15
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ここに、奇日の児湯(くしびのこゆ)の国 に住む なしび(那之比)の現人(うつしび)、
「丸木二郎(まるきじろう)」 という者がいた。

彼は、三年前から病にかかり、
顔が腫れ、足もむくみ、体のいたるところが膨れ上がるようになった。

そのため、薬人(くすしびと) が様々な薬を試したが、
どれも効かず、病は悪化の一途をたどり、
今まさに 死を迎えようとしていた。

ここに、彼の親族や家族が集まり、悲しみに暮れながら天津御子の命(あまつみこのみこと)のもとに参上し、
「どうか助けてください!」 と訴えた。

これを聞いた天津御子の命は、
高津上たち(たかつのうえたち)・明津上たち(あけつのうえたち)と共に相談し、
大国部八雲国刀自の命(おおくにべやくもくにとじのみこと)、
少名出湯知男の命(すくなでゆしるしおのみこと) を召し寄せ、
次のように告げた。

「この者を生かしたい。どうか治療してほしい。」

ここに 二柱の命(大国部八雲国刀自の命と少名出湯知男の命)は、
児湯の国へと向かい、病の者、丸木二郎を診察した。

彼の様子を見てみると、
頭が腫れ、目も鼻も判別がつかず、手は膨れ上がって物を掴むことができず、
体は膨れ上がって起き上がることもできず、足もむくんで歩くことすらままならない。
彼は、ただ 体をのたうち回るばかり であった。

ここに 二柱の命は、国内の薬人(くすしびと)を集めて問うた。

「どのような薬を与えてきたのか?」

これに薬人たちは答えた。

「尿を出す薬、糞を出す薬を飲ませてきました。」

ここに、二柱の命は、
彼の脈拍を四か所確認し、さらに腹や内臓を探るようにして診察し、
次のように告げた。

「これほどまでに皮膚や肉が腫れ腐り、
悪臭を放っているということは、内臓の病ではない。
この病は、火気(水分不足による熱)と水気(体内の余分な水分)の乱れによるものだ。
だからこそ、このように体が腫れ、肉が腐り始めたのだ。
これは、糞を出す薬では治らない。」

「もしこのまま腸にまで腐敗が及べば、間違いなく死に至る。
したがって、腫れや腐敗を治す方法として、
外側からの治療と内側からの治療、両方を施さなければならない。」

「外側から治療する方法は、次のようにせよ。」

① 綿花(わたのはな)を丸めて
② 松の実の油(まつのみのあぶら)に三日間浸し
③ その綿花を火で炙り、黒い粉にする
④ その粉を油に混ぜて薬を作る
⑤ これを毎日、朝と夜に塗りこめ

この治療を続ければ、
「五十日余りで、血や膿が弾けて流れ出し、傷が癒えるだろう。」

「傷が治ったあとは、皮膚が硬く張り、約百日ほどでそのかさぶたが剥がれ落ちる。」

この時、傷跡は火傷のように黒ずみ、肌が汚く見えるだろう。
そのため、次のような処置を行うべし。

① 瑞芹(みずせり)の葉を湯で煮て、濃い煎じ汁を作る。
② これを毎日、三度、四度、五度と、患部に塗りこむ。
③ そうすれば、やがて肌が元通りの色に戻るであろう。

さらに、治療を始める 一日前 から、
かざき(榧の実)の汁を煮出し、
その汁を使って松脂(まつやに)を丸めたものを服用させる。
これを日々の治療の中で増やしていけば、
病は完全に治るであろう。

このように告げると、
二柱の命は、この治療法を実施するよう命じた。

これに従い、治療を始めたところ、
百日余りで、病は完全に癒え、丸木二郎は健康を取り戻し、
再び労働できるまでに回復した。
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32,16
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ここに 天津御子の命(あまつみこのみこと) は、
臣の上たち(おみのうえたち) と共に議論し、
次のように決定した。

「各地の国々に "攘ら屋(あららや)" を設け、市場を開き、
国の民たちが互いに交易できるようにしよう。
それによって、人々の暮らしを豊かにしようではないか。」

そこで、各国の国建(くにたけ) を召し寄せ、次のように告げた。

「現人(うつしび)たちの生活をより便利なものとするため、
各地の小国に "攘ら屋" を建設し、
そこに "商人" を集めて住まわせ、市場を形成せよ。」

「ただし、市場を開く場所については注意しなければならない。」

「必ず "良き地" を選び、
決して "荒れ地" に建ててはならない。
"暮らしやすい土地" を選び、市場を開くようにせよ。」

そこで、各国の "国建" たちは、それぞれの領地において市場を設置した。

また、それぞれの "守り所の秀庫"(すぐれた倉庫) を開き、
役人を派遣し、物資の流通を管理した。

こうして、"攘ら屋" に商人や工人(たくみびと)、鍛冶人(かぬちびと)たちを住まわせ、
人々の暮らしを豊かにしたのである。

この施策により、国の民たちは大いに喜び、
次のように歌い踊った。

「楽しき世になった! 我らの暮らしは今、栄えたり!」

このようにして、国々は繁栄していった。
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32,17
-------------
ここに 天津御子の命 は、
国々を巡視しながら、
「市場が繁栄し、民たちが楽しげに暮らしている様子を見届けよう。」
と思いながらも、ふと考えを巡らせ、こう語った。

「私が国を巡ることに何の意味があろうか?
民たちは、私を迎えるために労力を費やし、苦労しているのではないか?」

そこで、天津御子の命は、
国々の "覇精高の上(はせたけのうえ)" たちを召し寄せ、こう命じた。

「国々の様子を詳しく確認し、
民たちが本当に穏やかに暮らしているのかを、
すぐに報告せよ。」

そこで、次の者たちを各国へ派遣し、国の視察をさせた。

東北方面(陸奥・越の国々)
科長四方厳瀬の命(しながちよもたけのせのみこと)
野陸(のくに)、常陸(ひたち)、陸奥(みちのく)、越根(こしのね)の国々を巡視
中部・近畿方面(淡海・伊勢津など)
金山種凝の命(かなやまたねこりのみこと)
淡海(おうみ)、狭依科(さよりしな)、伊勢津(いせつ)、遠津海(とおつみ)、无邪津海(むじゃつみ)の国々を巡視
西日本方面(秋津根・出雲など)
弥都波和魂の命(みつはにぎたまのみこと)

秋津根(あきつね)、日下根(くさかね)、愛媛(えひめ)の国々を巡視
埴安久那津見の命(はにやすくなつみのみこと)

穴門(あなと)、出雲(いずも)、吉備津(きびつ)、丹波(たんば)の国々を巡視
羅摩屋竹の命(らまやたけのみこと)

建依(たけより)、飯依(いいより)、大宜津(おおぎつ)の国々を巡視
波限高島之男の命(はぎたかしまのおのみこと)

奇日(くしひ)、豊日(とよひ)、白日(しらひ)、速日(はやひ)、建日(たけひ)の国々を巡視
-------------
32,18
-------------
これらの 視察官(使主人) たちは、
各地を巡視し、国の様子を詳しく観察し、
現地の民の声を直接聞いて報告をまとめた。

彼らの報告によると、
「すべての国が穏やかで、争いもなく、平和である。」 ということであった。

「民たちは、それぞれの家を建て、楽しく暮らしており、
朝には歌い、夕暮れには歓声をあげ、
日々、仕事に励み、子供を育て、家族を増やしている。」

さらに、各地の男たちは、鍛錬を積み、武術を磨き、
外敵が攻めてきても、十人、二十人を相手に戦えるほどの力を持っている。

また、老人たちは、若者たちに知恵を授け、
国の "覇精高の上" たちは、民たちを導いており、
国の発展に貢献している。

各地の使者たちは、このような報告をまとめ、
天津御子の命のもとへ帰還した。

これを聞いた 天津御子の命 は、
高津上たち、明津上たち と共に大いに喜び、
こう語った。

「東の果てから西の果てまで、すべての国が平和である。
これはまさに "安国" であり、"穏び国" となったのだ。」

そこで、天津御子の命 は、
ますます "天の祭り" "国の祭り" を盛大に執り行うことを決め、
国の繁栄を祈ったのである。

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32,19
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ここに、日高日子波限建鵜葺草葺不合
四十一代彦の命(ひだかひこなぎさたけ うがやふきあえず よんじゅういちだいひこのみこと)は、
御齢(みよわい)老いませて、
ついに 天津三種の神宝(あまつみくさのかんだから) を
高御座(たかみくら) に捧げたまい、
大御身(おおみみ) は 菊池の御子の山(きくちのみこのやま) に
大宮(おおみや) を建てて 宮隠(みやごも)り ました。

ここに、日高日子波限建鵜葺草葺不合
四十二代姫の命(ひだかひこなぎさたけ うがやふきあえず よんじゅうにだいひめのみこと)は、
産御名(うみなの) を 鶴舞姫の命(つるまいひめのみこと) と申し、
天の下を知ろしめしたまいました。

その時、高津上たち(たかつのうえたち) の名は次の通りです。

太玉火鑚杵の命(ふとたまひきりのきのみこと)
斎部高津御祖の命(いんべたかつみおやのみこと)
思金大鳥の命(おもいかねおおとりのみこと)
足禰村別の命(あしねむらわけのみこと)
中臣闇谷の命(なかとみくらたにのみこと)
表春牧之男の命(うわはるまきのおのみこと)
彼らは共に議り、
次のように決定しました。

「四十代の天津御子の命の御子である
日子玉之男の命(ひこたまのおのみこと)を
次の世嚮男(よしつぎおとこ)として奉ろう。」

しかし、まだ 三年も経たぬうちに、
日子玉之男の命は 神隠れ してしまいました。

そこで、新たに、
その御子の弟 眞子足玉分の命(まこあしだまわけのみこと) を
次の 世嚮男(よしつぎおとこ) として召しました。

ここに、天津御子の命 は、
御孕(みはら)ませ になり、
大土小土(おおつちこつち) に取りなし、
神冴えに(かみさえに) 霊熟き(たましずき) 斎熟ます(いわいしずます) ことで、
大分の黒の小浜(おおいたのくろのこはま) に
産宮(うぶみや) を建て、
御輿入り(みこしいり) し、
御子をお産みになりました。

その御子の名は、

豊足大御中の命(とよたりおおみなかのみこと)。

この御名を称え奉り、
その 大御名(おおみな) は、

日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひだかひこなぎさたけ うがやふきあえず)
四十三代彦の命(よんじゅうさんだいひこのみこと)。

この世には ただ一柱 の御子がお生まれになりました。

この御子が 御齢二十一(みよわいにじゅういち) になられた時、
天津御子の命 は、
直入の大宮(なおいりのおおみや) に 宮隠り(みやごもり) なさり、
永く平穏にお過ごしになられました。
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32,20
-------------
ここに、日高日子波限建鵜葺草葺不合
四十三代彦の命(ひだかひこなぎさたけ うがやふきあえず よんじゅうさんだいひこのみこと)は、
産御名(うみなの) を 豊足大御中の命(とよたりおおみなかのみこと) と申し、
御妃(みきさき)は
四十一代の天津御子の命(てんつみこのみこと)の御子(みこ) である
伏見八尾姫の命(ふしみやおひめのみこと)の御子(みこ)、
若俣伊須岐之女の命(わかまたいすきのめのみこと) を
召されました。

この御妃(みきさき)は御子を産まれ、
その御名は、

種蒔姫の命(たねまきひめのみこと) でした。

次に、御妃(みきさき)は再び 御孕(みはら)ませ になり、
しかるべき神の力によって、
大土小土(おおつちこつち)に取りなし、
神冴えに(かみさえに)霊熟き(たましずき)斎熟きます(いわいしずます) ことで、
大分の黒の小浜(おおいたのくろのこはま) に
産宮(うぶみや) を建てて
御輿入り(みこしいり) し、
御子をお産みになりました。

この御子の名は、
大炊息吹の命(おおい いぶきのみこと)。

その 大御名(おおみな) は、
日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひだかひこなぎさたけ うがやふきあえず)
四十四代彦の命(よんじゅうしだいひこのみこと) でした。
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32,21
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また、三年の時が経ち、
御妃(みきさき) は再び 御孕(みはら)ませ になり、
しかるべき神の力によって、
大土小土(おおつちこつち)に取りなし、
神冴えに(かみさえに)霊熟き(たましずき)斎熟きます(いわいしずます) ことで、
臼杵の大之浜(うすきのおおのおはま) に
産宮(うぶみや) を建て、
御輿入り(みこしいり) されました。

その時、
産宮(うぶみや) の空には 烏(からす)と烏と が
互いに争い、喰(く)い合い し、
ついには 死んで落ち ました。

そこで、産宮を守っていた
雲根笠取の命(くもねかさとりのみこと)、
活津幸屋彦の命(いくつさちやひこのみこと)、
神立大倉之男の命(かみたちおおくらのおのみこと) の
三柱(みはしら)の神が申し上げました。

「この烏(からす)は吉兆ではない。
これは天津日嗣(あまつひつぎ)に
立て奉るべきものとは思えない。」

このようにして、
生まれた御子の御名(みな) は、

虚空津争烏の命(そらつあらそいからすのみこと) と名付けられ、
大御名(おおみな)は 奉られませんでした。

しかし、その後、
宮迎えの上(みやむかえのかみ) である
萱野彦舅の命(かやのひこじじの みこと)、
八衢柝土の命(やちまたの きどのみこと)、
衝桙船絵勝の命(つくぼこ ふなえかつのみこと) が
申し上げました。

「この御子に 大御名(おおみな) を奉らなければ、
去にし世の訓(のり)に違(たが)い、
良くないことであります。」

ここに、産守上(うぶもりのかみ)は、
この御子に 大御名(おおみな) を献(たてまつ)り、

日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひだかひこなぎさたけ うがやふきあえず)
四十五代彦の命(よんじゅうごだいひこのみこと)

と名付け奉りました。

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32,22
-------------
また、御妃(みきさき) は
再び 御孕(みはら)ませ になり、
大土小土(おおつちこつち)に取りなし、
神冴えに(かみさえに)霊熟き(たましずき)斎熟きます(いわいしずます) ことで、
大分の黒の小浜(おおいたのくろのこはま) に
産室(うぶや) を建て、
御輿入り(みこしいり) されました。

御子をお産みになる時、
多くの烏(からす)が飛び舞いながら
産宮(うぶみや)の御棟(みむね)に降りてきて、
みな 顎(あご)を打ち鳴らしました。

これにより、
御子の名は

烏言足清男の命(からすことたりきよおのみこと)
と名付けられました。

その 大御名(おおみな) は、

日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひだかひこなぎさたけ うがやふきあえず)
四十六代彦の命(よんじゅうろくだいひこのみこと)

と申されました。

合わせて、
三柱の彦御子(ひこのみこ)、
一柱の姫御子(ひめのみこ)
が お生まれになりました。
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32,23
-------------
ここに 天之羽槌活衝の命(あまのはづち いくつく の みこと) は、
二百歳余り になられ、
隠居(いんきょ) して、
隠れた仕事(こもりわざ) に従事され、
天を翔(か)けり、国を駆(か)けりながら、
人々(青人草) の幸せを見守り、
国内を慈(いつく)しまれました。

ある日、
天津御子の命(あまつみこのみこと) に
お目通りし、
こう申し上げました。

「私は、数日前、天を翔けり、
この国を見渡していました。
すると、この海の中に
大きな島があるのを見つけました。」

「これは、中津国(なかつくに)の端(はし)にある島です。
人々(青人草)はたくさんいますが、
岩穴(いわあな)に住み、
また平らな穴(ひらあな)に住み、
あるいは木の下に住んでいます。

「彼らは、着るものを持たず、
山草(やまくさ)を乾かして、
それを叩いて柔らかくし、
自分の体に巻きつけて衣服(いふく)としています。

また、彼らの食べ物は
木の実を食べ、
獣(けもの)を食べ、
お互いに争いながら暮らしています。

彼らの姿は、
男も女もほとんど同じで、
見分けがつきません。
ただし、年をとった男だけは、
口に毛(ひげ)が生えているため、
男であるとわかります。

彼らは、朝も昼も、
食べ物をめぐって争い、
親と子の区別もなく、
本当に哀れな状況です。

ですから、天津御子の命よ、
どうかこの人々を憐れみ、
救ってあげてください。」

ここに 四十三代の天津御子の命(あまつみこのみこと) は、
思金燿綱の命(おもいかね かがつなのみこと)、
太玉世幸彦の命(ふとたま よさちひこのみこと)、
児屋活鳥別の命(こや いくとりわけのみこと)
を召し、
こうお命じになりました。

「彼の島を慈しみ、
その人々を導き、
獣(けもの)のような暮らしから解き放ち、
現人(うつしびと)として生きる
正しい道を授けなさい。」

ここで 三柱の上(みはしらのかみ) は、
「その島は、どこにあるのか?」
と尋ねました。

天之羽槌活衝の命(あまのはづち いくつくの みこと) は、
こう答えました。

「その島は、
奇日(くしひ)の多禰島(たねのしま)より
南の方角、
百里(ももさと)離れた場所にあります。」

ここに、
天津御子の命(あまつみこのみこと) は、
三柱(みはしら)の上(かみ)たちとともに
協議され、
「誰をこの島に遣わすべきか」
を決めました。

そこで、
沫那芸国明の命(あわなぎ くにあきのみこと) と
頬那芸百合香主の命(ほおなぎ ゆりかぬしのみこと)
の二柱(ふたはしら)の上(かみ)に
こうお命じになりました。

「汝たち、この島を拓き、
その地の人々を慈しみ、
獣のような暮らしを改め、
正しく生きる道を授けなさい。」

ここで、
二柱の上(ふたはしらのかみ) は、
工人(たくみびと)、
鍛冶人(かじびと)、
大御田族(おおみたぞく)を
百五十人(ももいそびと) 率(ひき)い、
海漁人(あまびと)八十人(やそびと)を従え、
大船(おおぶね)十隻(とふね)に
豊種津物(とよたねつもの) を
満載(みちた)し、
いざ出発することになりました。

また、
沫那芸国明の命(あわなぎ くにあきのみこと) の
夫人(め)である 明姫の命(あきひめのみこと)、
その御子(みこ) 国知彦の命(くにしりひこのみこと)、
(御齢二十八歳)、
国知彦の命の夫人(め) 佐奈姫の命(さなひめのみこと)、
その姉妹である
揺緒姫の命(ゆるおひめのみこと) を
加えた四人が
共に向かいました。

また、
頬那芸百合香主の命(ほおなぎ ゆりかぬしのみこと) の
夫人(め)である 主姫の命(ぬしひめのみこと)、
その御子 戸足之男の命(とたらしのおのみこと) (御齢四十二歳)、
その夫人 玉之屋姫の命(たまのやひめのみこと)、
さらに朋族(ともぞく)である
夜雨彦の命(よさめひこのみこと)、
小夜凪姫の命(さよなぎひめのみこと)、
夕種姫の命(ゆうたねひめのみこと) を
加えた六人が
共に向かいました。

(以上、彦二人、姫四人)

この 二柱(ふたはしら)の彦御子(ひこのみこ)、
国知彦の命(くにしりひこのみこと)、
戸足之男の命(とたらしのおのみこと)、
夜雨彦の命(よさめひこのみこと) の
三柱(みはしら)の上(かみ)は、
木工(きこう)、
屋作り(やづくり)、
道具作り(どうぐづくり)の長(おさ)となりました。

また、
七柱(ななはしら)の姫御子(ひめのみこ) たち、
明姫の命(あきひめのみこと)、
佐奈姫の命(さなひめのみこと)、
揺緒姫の命(ゆるおひめのみこと)、
主姫の命(ぬしひめのみこと)、
玉之屋姫の命(たまのやひめのみこと)、
小夜凪姫の命(さよなぎひめのみこと)、
夕種姫の命(ゆうたねひめのみこと) の
七人は、
衣服(きぬもの)、
食物(しょくもつ)を司る長(おさ)となりました。

さらに、
女子八十人(やそびと)を集め、
衣を織り、
布を織る者とし、
また炊き、
煮作りの者を加えました。

こうして、
彼らは大船(おおぶね)十隻(とふね)に、
麻布(あさぬの)、綿布(わたぬの)を巻き上げ、
大量に用意し、
さらに麻(あさ)や綿(わた)を積み込みました。

また、これらの道具をすべて船に積み込み、
船を整えました。

上たち(うえたち) と 現人(うつしびと) たち、
合わせて二百余人(にひゃくあまりのひと) が乗り込み、
大船十隻(とふね)を、
奇日(くしひ)の隅(すみ)の 佐多の門(さたのと) から
御吉船(みよしふね)に乗り込んで、
この年の春、
けさり月(旧暦の2月) の 月円日(満月の日) の 三日目 に
出航(しゅっこう)しました。

その夜、彼らは 屋久島(やくしま) に停泊(ていはく)し、
翌々日の 五日目の朝(あけび) に、
北風(きたかぜ)が
何度も吹いては静まりました。

ここにより、
彼らは船を出し、
順調な追い風(おいかぜ)を受け、
その日の 夕方(ゆうなぎ) には
小島(こしま) に泊まりました。

この 小島の陰(かげ) に停泊したため、
この島を 加計島(かけのしま) と名付けました。

さらに、しばらくして
彼らは 本島(ほんとう) に到着し、
そこに停泊しました。
-------------
32,24
-------------
ここに 上たち(うえたち) と 現人(うつしびと) は、
みな 陸(くが) に上がり、
穴人(あなびと) たちに
言葉をかけました。

しかし、
島の人々(しまのひとびと) は
遠くから彼らの様子をうかがい、
みな 山に登(のぼ)り、
石礫(いしつぶて) を投げつけ、
抵抗しました。

ここに 沫那芸国明の命(あわなぎくにあきのみこと) と
頬那芸百合香主の命(ほおなぎゆりかぬしのみこと) は、
こう言いました。

「この穴人(あなびと)たちは、
我らがここに来たことを恐れて、
このような行動をとっているのだ。
なんと哀れなことか。」

「よし、まずは翁(おきな)と媼(おうな)を
彼らの元へ送り、
心を開いてもらおう。
それから、
穴人(あなびと)十人(とおたり)ほどを
こちらに連れてくるのだ。」

そこで、
大原の翁(おおはらのおきな)、
夏実四郎五郎(なつみしろうごろう)、
(年齢は 八十八歳(やそやそとせ))、
その妹(いも)であり
妻(つま)である
媼(おうな)(八十三歳(やそみとせ))の
二人が、
蚕布(かいこぬの)を身にまとい、
竹杖(たけづえ)を手にして、
ゆっくりと山の上へ登っていきました。

彼らは穴人(あなびと)たちに
言葉をかけましたが、
言葉は通じませんでした。

しかし、
穴人の女たちは、
翁(おきな) の着ている衣服を
指で引っ張り、
「欲しい」 という仕草をしました。

そこで 翁(おきな) は、
その衣服を脱いで、
彼女たちに与えました。

これを受け取った
穴人(あなびと) たちは、
嬉しそうな表情を見せました。

すると、
彼らの中の
少男(おとこ)、少女(おとめ)
二十人(はたたり)が
翁たちについてきて、
二柱の上(ふたはしらのかみ) の元へ
やってきました。

ここに、
天津御子の命(あまつみこのみこと) は、
彼らの話を聞き、
穴人(あなびと)に
言葉をかけました。

「そなたたちに食べ物を授けよう。」

そして、
食べ物を渡すと、
彼らはとても喜び、
感謝の意を込めて
拝(おが)みました。

次に、
衣服を与えると、
彼らは 「着る」ということ を知らず、
衣をどのように身につけるか
わかりませんでした。

そこで、
国の人々が、
彼らに衣服の着方を教えました。

彼らは学び、
衣服を身につけ、
帯(おび)を結び、
装いを整えました。

彼らは
とても喜びました。

ここに 二柱の上(ふたはしらのかみ) は、
こう告げました。

「すべての穴人(あなびと)に衣服を与え、
食べ物を食べさせるのだ。」

この知らせを受けて、
穴人(あなびと)たちは
自分たちの住む場所へ戻り、
仲間に伝えました。

すると、
島のすべての人々が
次々に現れ、
上たち(うえたち)の前で
跪(ひざまず)きました。

ここに、
二柱の上(ふたはしらのかみ) は、
さらに告げました。

「汝らの住む家を建て、
雨や風をしのげるようにしよう。」

すぐに、
彼らは
鉈(なた)、
鉈鎌(なたかま)などの道具を渡し、
山の木を伐る方法を教えました。

彼らは木を伐り、
草屋(くさや)を建て、
そこに住むようになりました。

また、
家を建てる技術(いえづくり)、
炊事(すいじ)の方法、
水田(すいでん)の開墾、
畑の作り方、
養蚕(ようさん)、
麻の織り方、
糸紡ぎ、
機織り(はたおり)、
衣服の縫製(ほうせい)、
木工(もっこう)、
鍛冶(かじ) など
さまざまな技術を
穴人たちに伝えました。

この地は 南風原(はえばる) と
呼ばれるようになりました。

ここから始まり、
各地の国々や島々に、
このような教えが広がっていきました。

国の開拓(くにのたくまし) が進み、
三年の間、
彼らは熱心に働きました。

すると、
この地は
美しい国となり、
珍しい食べ物を巡っての争いもなくなり、
人々は
本当の「現人(うつしびと)」としての
暮らしを送るようになりました。

この国を、
「二那芸(になぎ)の国」 と呼びましたが、
後に 「琉球(りゅうきゅう)」 と
名付けられました。

これは、
漢国(からくに/中国) から
つけられた名前であると
言い伝えられています。

この地に留まっていた
二柱の上(ふたはしらのかみ) や
彼らの御子たちは、
長くこの地に暮らし、
十余年(とおあまりのとし)を経て
帰還の言葉を伝えました。

その後、
沫那芸国明の命(あわなぎくにあきのみこと) の御子、
沫那芸国知の命(あわなぎくにしるのみこと)、
その夫人(ふじん) 佐奈姫の命(さなひめのみこと) は、
この国に留まり、
国の安寧(あんねい)を守る役目を
担うこととなりました。

彼らは
「二那芸国の建(たける)」として
この地を治めることになり、
その子孫たちも
この国で暮らしました。

この国の人々は、
沫那芸国明の命(あわなぎくにあきのみこと)、
頬那芸百合香主の命(ほおなぎゆりかぬしのみこと)、
沫那芸国知の命(あわなぎくにしるのみこと)、
佐奈姫の命(さなひめのみこと) の
四柱の上(しはしらのかみ)を
南風原(はえばる)の鶴野(つるの)に
宮を造り、
葦原神(あしはらのかみ)として
祀(まつ)りました。

今もなお、
この国では
春の祭り のとき、
この宮で
盛大に祝い、
感謝の祈りを捧げています。

上津文 三十二 完

-------------
33,1
-------------
上津文 三十三の綴り
ここに 日高日子波限建鵜葺草葺不合 四
十四代彦の命 産御名ハ大炊息吹の命 生れ
ましながらに 御身穏びず 弱躯に常病みま
す 然れど日嗣の御子にましますからに 天
の下知ろしめしたまエども 益々に気鬱病イ
に弱らせたまウからに 七年とまをすに 大
分の御宝山にい退き宮を造りて 兄の命に天
津神宝を授けたまイて 宮隠りましたまイき
-------------
33,2
-------------
ここに日高日子波限建鵜葺草葺不合 四十
五代彦の命 産御名ハ虚空津争烏武の命 未
だ五十歳にもならせたまわぬに 天の下を知
ろしめさしたまエども 去にし世の訓りに從
ゐたまわずで 御心辺の隨になしたまイて
御自らの進田進びずで 国々の穂倉を以て事
ぶりまし 妃召し 向妻召し 御妾召しも在
さずで 御自らに 国駆けりて 心なす現人
の女を率きて 百八十人を集めて 朝な夕な
に 濁酒清酒を喰わせたまイ 楽しみとなし
たまウ 故 高津上 中臣闇谷の命 表春牧
之男の命 斎部小夜足彦の命 足尼倉笠の命
これの上たち 天津御子の命を種々に諌め
はにふれども 聞こし入れまつらでうたてあ
り 故 時の人歌イけらく
去にし世の 訓り修めずで
心隨に 去にし世の言違りに
よさ女 うしな女 少女ら
二百足らず 浮かれ抱き
大宮 うぢはく
-------------
33,3
-------------
ここに天津御子の命 百八十の少女を美し
く飾り装わして 阿蘇の衣尻の大野に遊びね
と云 出往きますに 立の御谷の大道を過
ぎます時に などかなしたまイけに 乗らせ
る御馬の御鞍割ちて 馬より逆さまに落ちて
側なる千引岩と共に 御谷に落ち入りまつ
りて 神隠りましたまイき 故 去にし世の
訓りに擬イて 御骸ハ衣尻の山に葬りまつる
-------------
33,4
-------------
ここに 其の弟の御子 日高日子波限建鵜
葺草葺不合 四十六代彦の命 産御名ハ 烏
言足清男の命 三種の神宝を抱かせたまイて
天の下を知ろしめさしたまイき 先に御娶
ゐます妃 豊櫛玉姫の命ハ 四十三代の天津
御子の命の御子 種蒔の命の御子なり また
向妻は妃の命の妹 衣取姫の命 御妾ハ沖姫
の命 こハ楯姫の命の御子なり また側禰女
若科姫の命ハ 香山春人の命の御子なり こ
こに向妻 衣取姫の命の御腹に生れませる御
子の御名ハ松若彦の命と申す 次に御妃 豊
櫛玉姫の命の御産ませる御子の御名ハ 天之
明立豊鋤彦の命
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33,5
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また御妃 御孕みたまイて 大土小土に取
りなし 神冴エに霊熟き斎熟きますからに
大分の黒の小浜に産室を御立てて 御輿入り
に産ませる御子の御名ハ 大庭足姫建の命
大御名ハ 日高日子波限建鵜葺草葺不合 四
十七代姫の命と申す
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33,6
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ここに 天之明立豊鋤彦の命 先つ年に国
廻ましし時に 木曽の御山を道を踏み迷わし
たまイて 山深みに入りたまウ時に 怒れる
白熊跳び来て 命を喰わにと火吹きて掛かり
けるに 命ハ常心まして 左右手を上げて
走し来る白熊を右の御手に掻ゐ掴み 左の御
手を拳になし 白熊の鼻柱を砕打ちに打ちた
まエば その鼻柱乱けて死に失せき 故 そ
の皮を剥ぎて 御太刀の尻鞘となしたまイき
故 其所をさやと云 また羆を手以 打ち
殺したまウによりて それの谷を たうち谷
と云
-------------
33,7
-------------
また 天之明立豊鋤彦の命 兄 松若彦の
命 弟 狭別葦垣の命 三柱の上たち 愛媛
の国に遊ばして 村主が家に宿りたまウ時に
御饗ゑまつるに 白作しの膳に 飯秀瓦を
左の前津物となし 膾平瓮を左の先津物とな
し 平秀瓦を右の前津物となし しり秀瓦を
右の先津物となす こを差し上げまつるに
天之明立豊鋤彦の命 そを見そなわしたまイ
て 怒り面頬に火照らし これの膳 斯くな
す 何故も吾を罪人に類エて 穢わしき状な
す と云て その供ウる膳を蹴え散げたまイ
き 故 その膳の落ち散りたる所を飯盛と云
三柱の上 御怒りながらに出立たしまさに
なしたまウ時に 村主畏みて 御袖に縋り
罪を贖ウに 称エ言申し告りき

-------------
33,8
-------------
故 三柱の命 御心解かしたまイて告りた
まわく 此所ハ海遠くで海魚食しも得ざる国
なり 故 吾れ 建依の土佐の小松浜に往き
て 海魚を取りて与えに 故 肩担ちの現人
を百人 荷提げを付けたる籠を 前と後とに
担しきの一尋棒に担わせ来ね と 告りたま
イき ここに三柱の上 直ちに建依の土佐門
に出往きたまイ 小松浜なる小船に櫓立てて
遠海に漕ぎ廻みて たゆたせますに ここ
に日中 海ゆ 八十尋の鯨泳き来て 海原の
波響ます 故 三柱の命 赤裸にならせたま
イて 褌巻きに小太刀を角先に差し立て 鯨
が舞エる海底に飛び入り 海魚の太腹に小太
刀を通し貫きに 小抉りに抉らしませば 鯨
躍りて 大海原駆けらにと狂熱る 三柱の上
手柄を海魚背に取りなして また口箆を太
刀以 眞裂きき こに怒りて跳ね覆すに追イ
繰りに また頭に攀ちて 彼が眼玉を刳り抜
きに抜かしたまゑば 弱りて憩ウに 栲縄を
打ち掛けて その小船に乗らして現人を呼び
て 鯨を磯辺に引きづり寄せて すたすたに
斬りて 現人に放ち遣りたまイき 故 其処
を鯨浦と云 またこれの海魚を捌きましし所
いと長かりき 故 そを長浜と云

-------------
33,9
-------------
ここに天之明立豊鋤彦の命 松若彦の命
狭別葦垣の命ハ 久万須の山の村主が家に御
帰りまして 久万須の山の 頂に登りまさに
となしたまウ時に 未たに十足らずの童男
四股なす牡鹿跨がり勤しに参来て 三柱の上
に告り言ちて 汝上ハ 天の日嗣の御子たち
なり 手力勝れます御身を以て 何故も悪じ
る奸る者を逐イて 現人の為に勤労ぎまさヤ
と云 三柱の上申しけらく それの所を知
らしませ と 申す 童答ゑて そハ狭依科
の佐久山の山合ゐの潜りにあり 彼ハ 去に
し世の神と称エて 年の毎の春と夏と二度に
人犠を取りて喰ウ こハ大きなる禍鬼なり
こを逐ゐて 国の現人を助けたまエ と 申
す こを教エ賜わる神ハ いづれの神に在す
ヤ 御名を顕わし在しませ と 申すに 吾
ハ天の大土 国の大土の神ぞ と云 御山駆
りましたまイき ここに三柱の上ハ直ちに狭
依科の国に速く走しりたまイて 覇精高の家
に入らせたまイき 伊奈彦の命 伊奈姫の命
に その故を問わしたまエば 御答エ申しけ
らく 佐久山に神あり 名ハ佐久神と申す
こハ昔ゆ 年に二度 春のいや月の祭り 秋
のなよな月の祭り それの夜に入りて 二十
歳後前の少女を八籖に取りなして 山の中ら
の奉り岩の滑らに伏さしまつるに 翌日見れ
ば 形も見エなくで失せぬ これの犠物を斯
くなさされば 豊種津物の秋毎に 雨多に降
りて稔らず 故 今日の日ハ これの祭りに
しあれば 二百取りの斎籖を散らし引きて
それの斎籖の正に当たれる者を贄に奉る 故
今 ここに泣き伏す少女ハ 年二十一 此
を供エまつるなり 天津日高の御子たち 憐
れみたまゑ と 申す 三柱の上 告りたま
わく そハ怪しき神なり 天津神 国津神た
ち 尽々に現しき青人草を愛みたまウに 然
なすハ禍津神なり 故 その禍鬼を逐らイて
憂きを助けて と云 ここに郷の子ら参て
これの八籖に取りなせる少女を連れて 佐久
山の中らの奉り岩に据え置き 饗エ物となし
て神奉りなして 黄昏時 各も各も帰りき
後辺に少女 八籖に取りなせるからに 唯に
泣きばかりなりき ここに三柱の上 先に工
人に謀り作らしたまエる少女像を その贄に
奉れる少女を引き解きて 告りたまわく 汝
が生命を助けて 禍なす神を逐らわに 汝
暫しが程 これの大樹の許に身を隠し居れ
必ずしも 脇に 勿 往きそ と云て 彼の
少女像を その奉り岩に伏せ置き 岩間に忍
て立て待ちたまイき ここに 眞夜時の夜後
時に 御山をい裂く如に轟こして 奴が身の
裄 一丈余りの神現れて 眼ハ鏡なす 口
耳に裂けて 薄黒気に呵々らと笑イ 続きて
括れる縄を食イちぎりて 少女を彼の許に
据えて 寝見 転び見 立ち見て 頓ら楽し
みの態なす 故 三柱の上 ここに現れまし
て告りたまわく 汝ハ何神なれば国郷の少女
を取り喰ウぞ と 怒りて虚足を踏み猛びき
故 その禍鬼驚きて 得も答エで 命を取
らにと 蠢き掛かるを 天之明立豊鋤の命ハ
禍鬼の飛び掛かるを 諸手速に肋の小骨を
爪繰るに 怒りて厳み跳びに苛くを膝と腰と
を掴みて 眼の上差しに投げつけますを 弟
松若彦の命 狭別葦垣の命 御佩かせる十
握剣を抜かして づたづたに斬りたまウ時に
俯りて斃ウ こハ幾年か経にけむ大猿にな
もありき
-------------
33,10
-------------
ここに日高日子波限建鵜葺草葺不合 四十
七代姫の命ハ 児屋臼杵富の命 太玉水原の
命 思金威吉笑の命 科長平男彦の命 羅摩
屋立之男の命 波邇夜須久那津見別の命 弥
都波和魂の命 金山言人主の命 これの上た
ち 御議りの隨に 四十四代の天津御子の命
の御子 狭別葦垣足の命 世嚮男に召さした
まイき 故 御孕みたまイて 然々に 御身
穏びますからに 大分の黒の小浜に産室を御
立てて 御輿入りに産ませる御子の御名ハ
豊津神足別の命 大御名ハ 日高日子波限建
鵜葺草葺不合 四十八代彦の命 一柱ましま
しき ここに 天津御子の命 天の下を久し
く知ろしめしたまイて 三種の神宝を天津高
御座に捧げたまイて 御身ハ直入の宮に隠り
たまイき
-------------
33,11
-------------
ここに 日高日子波限建鵜葺草葺不合 四
十八代彦の命 産御名ハ豊津神足別の命 む
つびの初めの日に 天津神宝を抱かせたまイ
て 天の下を知ろしめしたまイき 御妃 豊
鋤姫の命 こハ四十五代の天津御子の命の御
子なり 向妻 紙縒姫の命 こハ御妃の同胞
撓草若江の命の御子なり 御妾 松秀之女
の命 こハ 四十三代の天津御子の命の御子
鋤浮の命の御孫なり ここに御妃 豊鋤姫
の命の産ませる御子の御名ハ梅之枝姫の命
次に御妾 松秀之女の命の御腹に生れませる
御子の御名ハ 稚足姫の命 次に稚足彦の命
次に向妻 紙縒姫の命 御孕みたまイて
神冴えに 然々ますからに 大分の黒の小浜
に産室を御立て 御輿入りに生れませる御子
の御名ハ 豊足彦の命 大御名ハ 日高日子
波限建鵜葺草葺不合 四十九代彦の命 次に
御妃 豊鋤姫の命 御孕みたまエて 取りな
し然々にますからに 臼杵の大之浜に産宮を
御建てて 御輿入りに産ませる御子の御名ハ
豊足姫の命 大御名ハ 日高日子波限建鵜葺
草葺不合 五十代姫の命

-------------
33,12
-------------
ここに四十九代の天津御子の命 天の下を
知ろしめしたまイて 妃 豊櫛玉姫の命 こ
ハ四十六代の妃命の御腹の御子なり 向妻
沖姫の命 こハ同じ代の御妾の御腹の御子な
り 御妾 若科姫の命 こハ同じ御代の側禰
女の御腹の御子なり また側禰女十二人まし
き これの側禰女の御腹の御子 十余り四柱
まします 故 彦御子五人 姫御子八人 こ
ハ御子の数にわ入らずで 覇精高の上と云
ここに御妃の命の産たまエる御子の御名ハ靱
建之男の命 次に御孕みたまイて 取りなし
然々にますからに 大分の黒の小浜に産室を
建てて 産ませる天津日嗣の御子の御名ハ
神足別国押之女の命 大御名ハ 日高日子波
限建鵜葺草葺不合 五十代姫の命 次に御妾
若科姫の命の御腹に生れませる御子の御名
ハ八雲姫の命 次に若鷹姫の命 次に向妻の
命の御腹に生れませる御子の御名ハ橋富姫の
命と申す
-------------
33,13
-------------
ここに天津御子の命 白日の国に御遊びま
さにと 斎部葛原の命 太玉波避別の命 中
臣春玉磯部の命 表春畑鋤の命 下春高藤の
命 思金妹沢の命 側禰堅塩の命 科長鳥之
小桙の命 金山栄彦の命 埴安狭田の命 燿
倉楯徹の命 八衢苫坂の命 沖避常世食の命
秋津押玉の命 赤土横戸辺の命 水分井之
上の命 山津見甘樫の命 高淤迦美軽野の命
別雷活玉の命 布都天之早瀬の命 楮梳富
樫之男の命 木之俣数彦の命 積羽山口の命
手置栲木の命 薄滝見の命 活玉鳥凪の命
積羽牧原の命 山咋坂戸の命 沖津八百雲
の命 これの上たち また 大伴の長たち百
人を伴なイたまイて 直入の三宅野に出立た
して また 速見に立たし そゆ 宇佐 中
津 毛見の国立たしまして 白日ハ御井 阿
座 夜須野に立たしたまイて見そなわしたま
ウ
-------------
33,14
-------------
把伎山の上に大きなる榎有り 故 そハ国
辺に蔭なして いと悪しかりき 故 これの
木を伐り 種津田の助けとなさに と云 臣
の上たち 共に その木を伐り倒したる所を
たぶしと云 そゆ豊日の大木を伐りて種津田
の為とならに と云 出往きたまイて見そな
わすに 其の木の根 山の如にあり 故 其
の木根廻りを 足踏みなさしむるに 一萬五
千踏みあり こをちこりなすに二里四邑あり
き また 木の高みを計りなすに二十七里あ
り と申す これ木 千々の枝 延ゐ広ごり
木末々々ゆ 露玉霧り落ちて雨如す

-------------
33,15
-------------
ここに奇しき翁 頭毛ハ眞白に長く統べし
髻なし 口毛ハ長く 八束に垂らして 眼潤
み泣きつつも 天津御子の命を拝み敬イて申
す 奴ハ これの木の畔の神なり 天津御子
の命 これの木を 今 伐りたまハば 奴ハ
此処に絶エ失せなむ 故 御赦しね と云
ここに思金妹沢の命 斎部葛原の命 中臣
春玉磯辺の命 答ゑけらく 汝神ハ 木の畔
の神なるか いとも憐れにこそ思ほゆれ 然
れどこれの大木の延イ広ごれるからに 国内
の現人の作り物稔らで 幾千萬の青人草悩み
て 国内病み痩す こを以て今 此の木を伐
り倒さにと装イなす 然ハあれど 然々を申
さにと云申す
-------------
33,16
-------------
ここに天津御子の命 翁を召さしたまイて
告りたまイつらく 汝ハこれの大木の木の畔
の神と申すか いと憐れに思ほゑ侍る 故
今ゆ後ハ 汝に名を与ゑて 大宮を建てて斎
き祭らしめに こを以て国現人を恵みて 国
の幸を守れ と云て 楠の命と云御名を賜イ
き ここに楠の命 甚く喜び申しけらく 奴
ハ現しき青人草並めなるさゑに嬉しきに ま
して名をさゑ賜びて 大宮を建て斎きまさに
と云ハ 斎々しき大御言になもある これの
喜びにとても 然らば これの木を伐りたま
ウ加エ人申さに また此の木伐りの訓りハ
南吹き南風の吹かに日に 人八十人以て 四
方ゆ伐りたまエ 明る日ハ 人八十人 左右
方ゆ伐りたまエ 二か日にその木倒れに そ
ハ 奴が心なさに また人草の幸わゐの便め
に これの木以て穴門に橋を渡して 人草の
通イ路となさに 故 これの道筋の人草 そ
れの家を立ち退きて居れ 必ずしもに其所に
勿 居りそ 居らば生命死去ぬ と云 こ
こに使主人の長共に 道筋の現人に然々に伝
てき
-------------
33,17
-------------
ここにふくみ月の月立ての五か日に 楠の
命参来て 天津御子の命に申しけらく 明日
の日 明後の日 二か日に木を伐らしめたま
エ そハ 明後の日にハ 南風必ず吹きぬ
と云て帰りき ここにふくみの月立てる六か
日に 臣の上たち共に八十人人 各も各もに
木伐り鉈以 木を伐る 故 この木伐り鉈を
斧と云 また その明日の日の東雲ゆ南風甚
く吹く こハ翁の言しに違わず と云て 手
に手に斧以て右面ゆ伐り入りし時に 天津御
子の命も西ゆ斧以て伐り入ります 吹く風激
しくて その伐れる側からゆ 大なる音を鳴
らし うどろうどろ かわりかわりと鳴りて
大土震ゐなす如にて 山なす大木 大唸り
して 未だ木本を半ばも削らぬに 吹く風の
頻なみ 共に引き千切れる如に抜けて 山々
を越して 宇佐川の遙か西の野原に落ちて
大木ハ横伏しに倒れて木末ハ穴門の浦に落ち
き 故 その木の落ちし所を木の国と云 木
末の落ちし穴門の浦をこすえ浦と云 また木
の根 山となる こを楠山と云

-------------
33,18
-------------
ここに天津御子の命 臣の上たち共に こ
れの木の横伏せを踏み渡り試てに と告らす
時に 楠の命参来て申す これ木を踏み渡り
まさば 御馬に召さして往きたまエ と 申
す 故 天津御子の命 臣の上たち 共に御
馬に召されて出往きたまウに 処の現人 皆
御伴に罷りて出往きき これの向斎きの上
に楠の命仕エまつる 故 現人 皆 喜びて
千萬に天津御子の命を迎ゑまつりて 鼓打
ち 笛吹き 歌を歌イて 神楽を奉りまつる
また穴門ゆ然々 ここに天津御子の命 楠
山の頂きに萱宮を太敷き建てて 楠の命を斎
ゐまつりて 児屋春玉の命 屋玉畑津杉の命
久々智沢名の命 これの宮の斎きの上と称
エて 其所に住ましめたまイき
-------------
33,19
-------------
ここに天津御子の命 臣の上たち 諸共に
宮帰りなしたまウ時に 速見の火鳴り岳に御
立たしたまイて 其の温泉を見そなわして告
りたまわく これの温泉の沸り湯を岩土以越
し取りて 湯浴みなさば 青人草ハ病イ免れ
てむと云 直ちに岩土に越し取りて その夙
めに 速見の海辺に引き下げ越しき 故 そ
こを朝見と云 また磯辺の砂子原に越し入満
つる所を浜脇と云
-------------
33,20
-------------
ここに天津御子の命 臣の上たち 共に東
に国廻まさに と云て 大宮船に召さして日
下根の国に下り着かせたまイて 国内を歩き
たまイて 幡多山に到りますに 天津御子の
命 甚く御足を傷めて悩ましたまイき ここ
に大国琴音の命 少名大斎瓮の命 共に議り
たまイて 豊日の火鳴岳の温泉湯を 岩土樋
に持ち参越したまイて 天津御子に湯浴みま
つらしたまイき 故 日ならで い健に験わ
れたまイき 故 其処を有馬と云

-------------
33,21
-------------
ここに天津御子の命 臣の上たち 共に
淡海根に出往きたまイ これの湖を見そなわ
したまイて 覇精高の上 栗栖彦の命 栗栖
姫の命に問わしたまイけらく これの湖津ハ
いと海原なす 故 川魚多なさに なとて魚
取りハ無きぞ と云 御答エけらく 川魚多
にあり と云 然れど 其の漁する業を知ら
じ と云 故 大土千守の命 積羽八千鉤玉
の命に仰せて 其の魚取り業を訓り伝てなせ
よ と 告りたまイき 故 二柱の上 八十
人の現人に仰せて その山々に立てる大木を
伐らしめて 三尋にこきらせて 其の木に錘
着けて 下辺を尖らせ 錘ゆ内抜きに抜かし
櫓 櫂立てを作らし また物部の大野に麻
緒を作らして そを眞糸に績がさせて 大目
小目の網を結かして形敷き 船を湖津原に
浮かめて 魚取り業然々に訓り伝てます 川
魚多々に上がりて現人喜び合エり
-------------
33,22
-------------
ここにまた覇精高の上申しけらく これの
湖津 年々に増さりて 現人大に苦しむ そ
ハ去年の種津田ハ今年の水底となる こを助
けたまイね と 申す 天津御子の命 斎部
葛原の命 表春襷の命 側禰堅塩の命 思ゐ
議りて告りたまわく こハ水の上端を捌かば
良け と云 これの役なすハいづれの上し侍
ウ と云 ここに岩柝斎田取彦の命 根柝玉
之男の命 こハ 吾が役奉らに と云 天津
御子の命 三柱の上たち 宜べ と 告りた
まイき ここに 岩柝斎田取彦の命 根柝玉
之男の命ハ頭毛の髻を解き垂らし 手当て
脛当てを固め 紐足板履き締めて 栗栖山の
頂に登らし 底低きみの岩敷の頂に御立たし
たまイ 御稜威を振りて 大声を放ちて 天
津祝詞を稜起らし 高足板を踏猛ぶに それ
の国内 地震なす またその蠢く声 天地に
通りて物凄かりき 故 二柱の上ハ おとり
こぬきて 彼の岩嶽を蹴え散らかしき 故
これの岩山千切れて 御空飛ばしに散り落し
て山となる この宇治山と云 その起これる
が飛び散りて こも小山数々なれり その中
なる太山を宇賀山と云 これの時に 湖水
其の合わゐよ うごろうごろに漲り落ちて
紀の山津御谷に廻りて大き野を走りて 日下
根の西海に落ちたりき こを以て淡海の現人
の作れる田之土 水底ゆ現れて易く耕しき
これの時に 天津御子の命の在座ましたまエ
る所を野洲処の国となも言ける

-------------
33,23
-------------
ここに日高日子波限建鵜葺草葺不合 四十
九代彦の命 三つの神宝を日嗣の御子に授け
まつらに と云て 天津高御座に捧げまつり
て 禮事 然になさせたまイて 建日の霧島
山に大宮柱太敷き建てて 宮隠りたまイき
ここに日高日子波限建鵜葺草葺不合 五十代
姫の命 産御名ハ神足別国押之女の命 天の
下を知ろしめしたまイき これの御子ハ 祖
御子の命の御齢負イたまイ 生れませるから
に いと若くましましけるに 天の下知らす
此年に二十にならせたまウからに 四十七
代天津御子の命の御孫 笠取足尼の命ハ 御
齢五十余りにならせたまウからに 世嚮男に
召し入れましき ここに天津御子姫の命 御
孕みたまイて 産ませる御子の御名ハ 天勝
国勝姫の命と申す
-------------
33,24
-------------
ここに天津御子姫の命 世嚮男 笠取足尼
の命に告りたまわく 吾ハ女にしあれば 臣
の上たちの夫人たちハ 吾に仕エまつらにヤ
と 告りたまイき 故 世嚮男の命 宜べ
畏こ 臣の上たちに言任せまつらに と云て
表春畑津鋤の命 児屋春玉磯辺の命 下春
笠見の命 中臣高藤の命 太玉忌戸開の命
斎部葛原の命 斎部波受の命 思金妹沢の命
側禰時世の命 科長平中の命 科長津鳥桙
の命 秀穂津後蒔の命 秀穂津百秋の命 弥
都波天津見の命 弥都波丹潟の命 波邇夜須
中窪の命 埴安狭田の命 燿火透館の命 金
山栄彦の命 金山長緒の命 大屋経継の命
積羽洲成彦の命 積羽八重主の命 言代仮名
配の命 鳴海海原の命 日別日之組の命 天
懸錏の命 国懸麻断之男の命に 然々を告り
て 夫人たちの御座置を定め また宮越しの
先を定めたまイき また宮内の召さしの媼
少女たちの御座置ハ 小間女 局女 侍女
ふみたち さきたち これの姫上たちハ 皆
天の祭り 国の祭りに仕エまつりて 朝の
御食 夕べの御食に仕エて 時の御衣 月の
御衣 日の毎の神楽に 三つの木立湯時のは
ふぶきに 仕エまつれ と 告りたまイき
-------------
33,25
-------------
斯く定めまして 然して後に 天津御子の
命 世嚮男の命と共に議りたまイて 月の毎
に臣の上たちを 大男の殿に在座まさし 夫
人の姫上たちを 大女の殿に在座まさして
天の祭りに仕エまつらしめて これの神楽に
ハ神楽歌イ歌を 楮布に煤水以てもじらして
男の謡イ歌を女の方に遣り 女の謡イ歌を
男の方に遣りて 女の歌を男歌イ 男の歌を
少女歌イて 舞を舞イ 笛吹き 柝く鈴 鼓
を打ち 八琴を弾き奏づらして こを以て月
の毎に 天津神の御祭りの神楽と称エまつる
ことを定めたまイき
-------------
33,26
-------------
ここに天津御子の命 御齢六十余りになら
せたまゑば 世嚮男の命ハ御齢百余りになら
せたまウからに 宮隠りまさにとて 豊日の
宮処に大室を太敷き建てて 三つの神宝を日
嗣の御子に捧げたまイて 大室に隠りたまイ
き ここに 日高日子波限建鵜葺草葺不合
五十一代彦の命 産御名ハ 国押別神足彦の
命 先の天津御子の御子 天勝国勝姫の命を
妃となしたまイき また 四十八代の天津御
子の命の御孫 梅賀枝姫の命を向妻に召さし
たまイき 故 御妃の命 御孕みたまイて
大土 小土に取りなし 神冴ゑに 霊熟き
斎熟きますからに 大分の黒の小浜に産室を
御建てて 御輿入りましてほのふりたまウ時
に 数多のいそさす参来て 赤火の吉玉を奉
る こにより 産たまゑる御子の御名ハ 天
津火之得玉彦の命 と申す こハ天津日嗣の
御子なり 故 大御名ハ 日高日子波限建鵜
葺草葺不合 五十二代彦の命 と申す 次に
向妻 梅賀枝姫の命の御腹に生れませる御子
の御名ハ 科時姫の命 二柱生れましたまイ
き
-------------
33,27
-------------
ここに 天津御子の命 天の下を知ろしめ
して 高津上 明津神 清津上 並上 厳上
共に議りたまイて 去にし世の訓り伝てを
学びて 安国の禮事 世に幸わゐたまイき
また女の御座置も前津世に学びましき

-------------
33,28
-------------
ここに国の国々 島の島々に言ふらしたま
イき 現しき青人草に悪じなす 毛の荒物
毛の柔物 這ウ虫 蛟 けび物ハ それの群
人寄りて 弓矢 石礫 また己が得物以て
尽々に殺し尽くせよ また 現人の禍なす人
ハ こも建に申して殺し尽くせよ そが蠱訓
りの秘め訓りハ
かエみわし すイみわし
かヤぬみなさ なせまヤ
つたほ こほさい
また
なせまヤ つたほ こほさい
斯く物言て蠱訓りて 千早ぶる禍津者 お
のづからに平らぎなむ と 言ふれたまイき
-------------
33,29
-------------
ここに狭依科の国の本巣の国の翁 穂積四
郎 齢九十余り 穂積九郎 齢八十余り 三
野之麿 齢百余り 三野之五郎 齢百十余り
中戸辺男 齢百余り これの五人の現人の
翁 日に異に 所の小川に出て勤しみて 岩
切り人を集イて 樋の井を作り 高水を移し
流して その後辺に木以て蜘蛛手を成し 樫
木以て 其の懐木となし 蜘蛛手を打ち立て
回りに輪なして 水受けとなし 其に溜も
水を上樋に移し また斯くなす それの回り
輪に水撥ねて くるりくるりと廻りき 故
こを車と云 其の車に一つ移せる水ハ 水面
ゆ一丈を上る 故 五つ懸れば五丈ます 此
にまた桐木板を角指しに長箱を作り その箱
中底にいき蓋を仕掛け その箱のたつに水噴
きを切り嵌め また これの箱の中に合床箱
を切り嵌めて その箱に中ころ棒を貫き立て
水噴きとなす 此を水干しと云 故 これの
貫き棒を梁を付けて 下樋の車ゆ撥ね廻して
片方に打たせば 其の水干しの口ゆ水噴きあ
けで 上津車木合ウ 故 また然々になす
こを以ておして賄わば 五車 三か日に太山
を水越す これの水を畑津に潅ぎてハ水田津
となる またこれの車に縦臼 横臼を打たし
てハ 搗き磨りをなす と申す 故 天津御
子の命 聞こし召さして告りたまわく 此ハ
いと珍らかなる水巻きなり 此所にそをなし
てよ と 告りたまイき 故 五人の翁 み
ヤきの川ゆ水巻きて 八山を越さし 此水流
しなに その大野に水嵩たゆたゐき 故 其
所を湯田と云 ここに天津御子の命 これの
五人を褒めたまイて 穂積四郎に水巻き主の
命 穂積九郎を水之祖の命 三野之麿を車作
の命 三野之五郎を繰樋之道の命 中戸辺男
を樋掛玉の命と云名を下したまイき
上津文 三十三の綴り 完エ

-------------
34,1
-------------
上津文 三十四の綴り
ここに五十一代の天津御子の命 現しき青
人草の便め良さになさしめむと更に定めたま
イき 豊日 白日 速日 建日 奇日 外の
国々の天津使主人に並上 広鉾楠木大垣の命
穴門 出雲の国の天津使主人の上 枳値訶
美後負の命 丹波 吉備津の国の天津使主人
の上 天之羽槌活楫の命 越根 陸奥の国の
天津使主人の上 甕土鬼苫主の命 常陸 野
陸 无邪津海の国の天津使主人の上 岩柝阿
背之明の命 遠津海 狭依科の国の天津使主
人の上 大雷花屋の命 伊勢津 淡海の国の
天津使主人の上 雷八重柴の命 秋津根 日
下根の国の天津使主人の上 雷御津薦の命
愛媛 建依 飯依 大宜津の国々の使主人の
上 山背攘主の命 狭手依 双児の国の使主
人の上 御名方熊建の命 故 所々の島国ハ
それの国廻の使主人 知らし治せ と 告り
たまイき 故 国の極み 島の極みぬ 天津
使主人の上たち 国廻ますから 便め道具エ
ましき ここに現人豊けく弛ますの楽し御世
の栄御世にありき
-------------
34,2
-------------
ここに日高日子波限建鵜葺草葺不合 五十
一代彦の命 産御名ハ国押別足彦の命 天の
下を御年永に知ろしめしたまイて 天津神宝
を天津高御座に捧げまして 御身隠りまして
天の若宮に神還りたまイき 御骸ハ然々に
葬り 道分きハ然々に 直入の吾平山に然々
に葬りまつる
-------------
34,3
-------------
ここに 日高日子波限建鵜葺草葺不合 五
十二代彦の命 産御名ハ 天津火之得玉彦の
命 はやれ月の月籠りの五か日に 天津神宝
を戴きたまイて 天の下を知ろしめしたまイ
き これの御璽の幸事然々に 御輿 本津宮
に入りたまイて後に 天の祭りに国の祓エ祭
り斎きまつる
-------------
34,4
-------------
神の禮事 現人の禮事の新祭りの寿詞告り
ハ 天津大神それそれに 神伊邪那岐の命
神伊邪那美の命 天照大御神 夜見照大御神
国照大御神 また 大星の神 星の神たち
皇御祖それそれの大神 臣ら御祖それそれ
の大神 覇精高ら御祖の神たち 八百萬の大
神たちを 天津高御座に据えて招ぎまつりて
大前に供ウる物ハ 天の八幡 国の八幡
神の八幡なり 天の栄鉾 国の栄鉾 神の栄
鉾なり 八鞣しの天の十握太刀 八鞣しの国
の十握太刀 八鞣しの神の十握太刀なり 三
ま立ての天の弓 三十滑め矢 五ま立ての天
の弓 五十滑め矢 七ま立ての天の弓 七十
滑め矢 三並置きの天津八方津稜の鉛鏡 三
並置きの国津四方津稜の稜立ての鉛鏡 三並
置きの神津雲形の鉛鏡なり 大瓊結イ 榊置
きの天津太の勾玉 中ら瓊結イ 於賀玉置き
の国津中なりの勾玉 小瓊結イ 桂置きの神
津五百の勾玉なり かむま置きの太瓊燿玉の
傍エに 栄りこゐ草花の品たちハ 天の御宝
剣に祀るなり また かむま置きの太瓊燿玉
の傍エに けつりめど草花の品たちハ 天の
御宝の御鏡に祀るなり また かむま置きの
太の燿玉の傍エに かわなよ草花の品たちハ
天の御宝の身二つ玉に祀るなり 国の本津
大御宝と供ウる物ハ 水田津米 餅米 赤米
あかち米 畑津米 餅米 畑津麦 か麦
畑麦 畑餅麦 畑ぶし麦 畑ぶし餅麦 畑津
沙玉麦 餅沙玉麦 畑津玉粟 餅玉粟 柝玉
粟 粟玉粟 糊玉粟 畑津黍 眞黍 瑞黍
太黍 なり黍 餅黍 水田津稗 餅稗 もろ
稗 手長稗 長稗 水田津勝見 餅勝見 丸
勝見 しみ勝見 いす勝見 畑津豆 青豆
核豆 畑津小豆 赤豆 細豆 まめ豆 黒豆
畑津もろて蕎麦 春蕎麦 狭蕎麦 餅蕎麦
畑津笹実 米笹実 斎笹実 敷笹実 畑津
や豆 蔓や豆 こハ作り供ウる十四種津物な
り 稲 大飯取りなすハ 白飯 赤飯 青飯
黒飯 黄飯 瑞飯 空飯なり 百幸取りな
すハ 大海魚 小海魚 山玉菜 山葉菜 野
玉菜 野葉菜 海玉菜 海葉菜 よぶこ取り
なすハ 未醤の白料 未醤の赤料 未醤の黒
料 未醤の甘料 未醤口刺料 味塩料 味塩
の甘料 味塩の口刺料 味塩の白萌エ料 醤
油の白料 醤油の甘料 醤油の酒料 醤油の
辛料なり 山野玉菜葉菜 海川玉菜葉菜
沖津海魚 辺々津海魚 眞金 錫金 枯味金
黒金なり これの金を息吹き垂れ別きに別
ける物 上津ほに 銅 下津ほに銅 常銅
上津ほに白金 下津ほに白金 常白金 焼
金 銅 さく金なり 貴玉 円貴玉 透し貴
玉 並貴玉 檜の扇 楮布扇 狭開き扇 畳
み扇 檜の楮布扇 檜の楮布の持ち柄傘 楮
布の雨差しの持ち柄傘 檜の楮布の日差しの
持ち柄傘 楮布の日差しの持ち柄傘 形真似
の猿 寛往きの雄雌鹿 巻毛の狛犬 八足り
駒 八足り雌馬 ゆとり特牛 ゆとり牝牛
雄鶏の太鳥 雌鶏の太鳥 雄鶏の細鳥 雌鶏
の細鳥 さゆらの雄鹿 さゆらの雌鹿 瑞垣
吠エ雄犬 瑞垣の吠エ雌犬 蚕布美し物 綾
栲 光栲 縮栲 色栲 葛栲 斎木栲 科
栲 のりこ栲 厚栲 薄栲 粗目栲 目無し
栲 麻布 綿布 栲布 はせ布 楮布 また
外の所に立てなすものハ 大木の千々葉なり
小木の千々葉なり 大竹の千々葉なり 小
竹の千々葉なり 鋒々の尻組縄ハ八重引き渡
し 神座所辺に十四種津実以て醸せる米濁酒
米清酒 麦濁酒 麦清酒 稗濁酒 稗清酒
勝見濁酒 勝見清酒 大豆濁酒 大豆清酒
小豆濁酒 小豆清酒 や豆濁酒 や豆清酒
蕎麦濁酒 蕎麦清酒 もろて濁酒 もろて
清酒 笹実濁酒 笹実清酒 玉粟濁酒 玉粟
清酒 沙玉濁酒 沙玉清酒 黍濁酒 黍清酒
まつま濁酒 まつま清酒 並める甕奉る毎
に神楽なす また 土に生エる熟き物 現人
の作る実り物 種々に捧げて 斎き祝ゐまつ
る また 十四種津物以て作れる三升の餅を
鏡形に取りなして供ウる毎に神楽なす 大伴
の長たち笹振り荒子なす また笛吹き 鼓打
ち 小鈴を鳴らし 柝く鈴を打ち 琴弾き
膝琴を弾き 竹琴を奏で 歌を歌イ 貴玉を
和せ 調子に散らぐ これの時に 大伴の女
男の長たち 各もの思イ任かに 木以て彫れ
る顰ち面を顔に面伏せて 歓ぎ騒ぎて俳優な
す時に 現人の老エる人 馬引き 牛引き
鹿引き 猿引き 犬吠やし 小犬吠やしなす
また 幡揺らし 伊吹き揺らして 神楽な
す ここに 児屋春玉磯辺の命 表春畑鋤の
命 下春悟の命 中臣高藤の命 児屋炊の命
これの上たちハ 天津祝詞の太祝り言を告
り 太玉戸開の命 斎部葛葉の命 斎部波受
の命 太玉大道の命 楮布に文手なせ 歌イ
寿詞を眞笹の枝に取り付けて 太御幣代なし
思金妹沢の命 足尼香取の命 思金麿の命
足尼鳴戸の命 楮布に裂れる青和幣 白和
幣を大神の像代に取りなし 科長平中の命
科長鳥火の命 天懸錣の命 国懸麻断彦の命
金山工長の命 弥都波下主の命 埴安布堅
の命 燿透の命 燿倉立の命 八百萬の御幣
の司人となし 明津上たち 厳上たち 並上
たちハ 其れ此れのよきとに仕エて大嘗め祝
かい 三十日完エぬ
-------------
34,5
-------------
日高日子波限建鵜葺草葺不合 五十二代彦
の命ハ 大神甞めの祝かイまつ 完エたまイ
て後に 妃召します 四十九代の天津御子の
命の御子 橋富姫の命と申す 向妻ハ 四十
九代の天津御子の命の御子 稚足姫の命と申
す 御妾ハ表春牧取の命の御子 栄姫の命と
申す 側の御妾ハ 科長平緒彦の命の御子
谷姫の命と申す 側の御妾ハ同じ腹族妹 桜
玉姫の命と申す 側の御妾ハ 同じ腹族妹
布姫の命と申す 時に御妾 栄姫の命の御腹
に生れませる御子の御名ハ 種川彦の命 次
に 御妃の命 御孕みたまイて 大土 小土
に取りなし 神冴エに霊熟き 斎熟きますか
らに 大分の黒の小浜に産室を御立てて 御
輿入りに産ませる御子の御名ハ 天開明磯国
束の命 大御名ハ 日高日子波限建鵜葺草葺
不合 五十三代彦の命と申す 次に 向妻
稚足姫の命の御腹に生れませる御子の御名ハ
神立之男の命と申す 次に 同じ御腹に生
れませる御子の御名ハ 天照知男の命 次に
御妾 桜玉姫の命の御腹に生れませる御子
の御名ハ 爪姫の命 次に取間姫の命と申す
次に 彦御子 姫御子ありき

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34,6
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先に天津御子の命 八耳櫛耳の命の御娘
籠姫の命ハいと眉目美し と云て 手琴を学
ばしたまウ歌イの声の 優形の雅びなす状を
聞こしめして 深くに忍ばイたまわにの御心
ばせの強くまして 八耳の家の室戸に御立た
したまイて 歌詠みます
これ籠ハ 幾こら籠
吾が竹瓮 今夜ハ寝ねしよ
明けば 還エさね
とて 侍女に言挙まつれば 姫御子答エけ
らく
高遙か 今夜ハ天昇して
明日 安河 御橋渡りに
寝ね 言問わに
と云 御子の命ハ また歌詠みい遣る
安河に 明日 橋を
渡らば 往かね
今夜きに 還さにせらヤ
いと はらまがつ
と 歌イたまイて 其の夜さに御娶ゐまし
き 後に 籠姫の命 御孕みたまイて 生れ
ませる御子の御名ハ 眞栄姫の命 次に直姫
の命 次に 滝小樫沢彦の命 三柱の上生れ
まして 彼此れの彦御子を小樫の覇精高の上
と申す 三宅の後の宮に在す霜凝日の命の祖
なり また種川姫の命ハ 中臣押国玉手の命
の夫人とならせたまイ また 神立之男の命
ハ 児屋磯部の命の家継ぎの御子とならせた
まイ これの御娘 朱笠姫の命を夫人となし
たまイき また 天照背男の命ハ 大分の御
宝山の許に新宮を建てて 皇ら睦の御陵辺の
斎き上とならせたまイき
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34,7
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次の御子 松姫の命ハ 広鉾大垣の命に御
娶イまして これの御子産か月にならせたま
イ 其の時に 荒熊 山野道を駆けり 荒ぶ
なす時に 産したまウ御子を名付けて 鬼熊
の命と申す これの御子 御齢三つとまをす
に 荒びたまエる年に 嫗二人 三人 斎き
まつるに 強くて 嗜め得ず 故 翁 一
二人 斎けど こも得ずで持て余るからに
陸船を作りて こに乗らせまつり 日に異
御遊びます時に 何どかかなしけに 怒り荒
びたまイて 乗らせる御船の舳端を踏み折り
其の船 ちたちたに蹴え倒して法外なす
人なり 益々に荒せて 山野に往き入るに
毛の荒物走し隠る と云

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34,8
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ここに天津御子の命ハ 豊日の跡部島に御
立たしまして 見そなわしたまウに 島人の
海漁 拙し と云て 高津上たちに告りたま
イつらく 吾 跡部島の海漁 勤労ぐを見れ
ば いと拙し 故 島の島々も斯くこそあら
め 故 そに磊嵬しき上たちを島々遣りて
訓り伝てなさせてよ と 告りたまイき 故
児屋春玉磯辺の命 中臣国魂の命 表春畑
鋤の命 下春悟の命 中臣高藤の命 児屋樫
木の命 太玉戸開の命 斎部葛葉の命 斎部
栄富の命 斎部波受の命 太玉大道の命 思
金妹沢の命 足尼香取の命 思金麿の命 思
金鳴人の命 足尼笹木の命たち 共に議りた
まイて 御年宇賀津目之男の命 国魂海間主
の命 笹津見常主の命 国押敷言知の命 香
山若玉の命 美虹分の命 熊野天之揺人の命
たちに 然々に告りたまイき 故 共に申す
建依の海漁人 或る日 釣りに出て 揺り
なす時に 忽ちに雲起きりて 山隠ろウ こ
に帰らに其の道を知らで海原に漂ゆてて 八
か日ありて食さず こに神あり 告げて 西
北指して帰れ と云 こゆ帰りき と云 斯
く四方を知らむ時にあり こを為してに と
申す 諾べ と云 ここに六柱の上 北の
たけよの島に往きて 山々麓の岩鉱を打ち頻
き取り 持ち帰りまして告りたまイけらく
これの岩鉱ハ 水気の凝り成れるなり 故
こを串刺し また 鄙処の山上にある岩鉱を
串刺し また塩と土との合わゐなる岩鉱を採
り そに水気の岩鉱と 火気の岩鉱との 串
刺しの串を中ら岩鉱の左右に刺し嵌めて そ
の中ら岩鉱の下方に 串刺して作き置きに据
エて見なば その水気の岩鉱ハ 北に当たり
火気の岩鉱ハ 南に当たる 故 東 西ハ
其を以て修さば 山隠れ 空隠れなすとも
厭わじ また 彼の水気岩鉱ハ 銅をいらイ
火気の岩鉱ハ 砂鉄を食ウ と云

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34,9
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ここに 雲根手長男の命 狭霧梅花咲の命
底津照玉の命 赤土中道の命 磐土児持男
の命 積羽狭織の命 積羽玉盛の命 積羽桝
形之男の命 言代火々串の命 言代十津彦の
命 言代天降の命 言代道別の命 大船に召
さしたまイて 島廻なしたまイき ここに雲
根長男の命 積羽狭織の命ハ 奇日 豊日
白日 速日 建日 天一箇柱 狭手依 これ
の国の島浦の海漁人の魚取りたちに 大網
小網 括網 裂網 俣網の道具の尽々に賜イ
て 其の道を訓り伝てたまイて 山立て 島
立て 海原立て また 月立て 星立て 潮
立て 風立て 瀬立て ゆせ立て 海見 筋
見 澪先見 ふり見 海魚越し捲くり 海潜
り はやさき 赤水 青水 柁振らし 合言
尽々に 其の道を定めて言伝てたまイき
また 狭霧梅花咲の命 積羽玉盛の命 大宜
津 建依 愛媛 飯依 これの国の島浦に下
りたまイて 然々 また 底土照玉の命 積
羽桝形之男の命 穴門 出雲 丹波 天之忍
許呂 越根 双児 これの国の島浦に下りた
まイて 然々 また 赤土中道の命 言代火
々串の命 秋津根 日下根 淡海根 伊勢津
根 これの国の島浦に下りたまイて 然々
岩土児持男の命 言代遠津彦の命 遠津海
无邪津海 野陸 常陸 これの国の島浦に下
りたまイて 然々 言代天降の命 言代道別
の命 越根 これの国の島浦に下りたまイて
然々に訓り伝てたまイき
-------------
34,10
-------------
ここに 久久智幸訓の命の御子 久々智五
月稚武の命ハ 徒歩路ゆ歩きたまイて 親族
一人を伴となして 速日の益城に遊ばしける
時に 川橋を渡りまさにと 川辺を見たまエ
ば 面美き少女の衣を濯ぎ少女居りき 其に
戯れ言問ウ 汝ハ何処家の少女 と云 其の
女 仰ぎ見て 思イて いと雅びませる逸り
男にますゆ 見愛で 恋イ染めど答エず 故
久々智五月稚武の命 歌詠みなして 歌イ
たまイき
衣振らす 御衣濯ぎヤに
吾が処欲る 今宵ハ宿貸せ
言なウ吾に
少女 返して歌イけらく
畏くぞ 田鶴の落ち来る
踝贏野に 生る千々草
刈り欲し問わに
と歌イて 父母に此れ状を語るに 喜びて
家内を清めて 招きまつりて 御饗まつり
父母 申しけらく こハ如何なる上にしま
すぞ 御名を知らまほし と云 故 吾ハ
久々智道之男の命の御子 久々智五月稚武の
命 と云上なり 汝ハ如何なる人の子にある
かも と云 答エけらく 奴ハ 国の覇精高
の上 稚益城之男の命 稚益城之女の命の御
子なり 奴が名ハ益城稚子の命 益城稚女の
命 と申す ここに 稚武の命 告りたまわ
く 然あらば 吾に 汝の娘 吾に与エよ
と云 諾べなす 故 稚武の命 宮還りたま
イて 御父の命に然々に論らイたまウ ここ
に 御父 久々智幸訓の命 告りたまイき
これの益城の命ハ 御祖ハ手力の命の裔なり
故 其の少女を迎エね と云て 召し容れ
たまイて 御子の命の夫人となしたまイき
-------------
34,11
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ここに御父の命 その嫁に告りたまイき
汝ハ戸開けの神の裔にしあれば 物術 また
力術ありなに と云 少女 御答エけらく
然非じ 常つ父言なウ 必ずしも 人に勝
たにと 勿思イそ 負けじ と思ゑ と云
故 吾ハ非じ と云
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34,12
-------------
ここに御父の命 若き臣の御甥の上 長道
葛木の命 御齢 二十にならせまつれと 手
力 人に勝れて強くて 物術 甚 強し 米
七斗を 片掌に眞差す 物術も其に並めす
故 これの上を召さして 米を持たしめて
如何に 汝も此に負けじヤ と云 少女笑み
奴負けじと思ほゆ と云て その作れる米
七斗俵なしを片掌に眞差す また 小太刀を
出して打ち合わすに 一つ太刀も身に受けず
向人に当てず 故 これの臣ゆ十延エ健き
木之俣敷墨の命 米十斗を以て 片掌に眞
差すに 少女 また 斯くなす また 小太
刀合ゐなすに然なす ここに 其の物術 手
力の底所を知らて 皆 畏れき 故 天津御
子の命 聞こしめしたまイ 呼びて そを見
そなわすに 人の言る如にありき 故 思金
妹沢の命 申しけらく 天津宇受売の命ハ
向かエ人幾らに強く畏きにも負けずで 八百
萬の神たち皆畏みて 天津珍之於須女の命
と云 これの少女ぞ その神に如なす と云
故 天津御子の命 その少女に国津珍女の
命 と云御名を下したまイき

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34,13
-------------
ここに 日高日子波限建鵜葺草葺不合 五
十二代彦の命 天の神宝を天津御座に捧げま
つりて 日嗣の御子に 天の下を知ろしめさ
したまイて 御親らに大分の御宝山に新宮に
宮隠りましたまイき 故 御子の上 天照知
男の命 隠りの宮主に斎きまつる 故 その
隠り宮を建てし所を 御宝の有蔵の山と云
また 其の御子の宮造りましし所を 岡倉と
云 これの新宮に三年の春と云に いやよの
月立ての暁時の東雲時方に 先御子の命 御
椅辺に御立たしたまイて 御子の天照知男の
命を召さしたまウに あウ と答ゑて 頓
至ります 隠りの御子 見ゑさせたまわずて
宮所の姫松に御冠の掛かりてありき
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34,14
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故 こを以て御妃の命 御嘆かせたまイて
また 神嶽に入りて 祷き言申したまウ時
に 【白髪を掛けし髻に結イ垂らし 御角髪
に鹿歯櫛を刺し 白の衽を鈍曲の袴に太刀を
佩き足板ハ素藁結ゐの太緒を着らし 弥々に
手組まゑて 畏みて申す】御妃の命 斯く嘆
かせたまウは 如何にぞヤ 斯く哀れまさし
ハ 眞心在さば た謀りまをさに と云 汝
翁ヤ 吾を何どか為してよ と云 故 天
照知男の命 また その翁に問わしたまわく
これの翁の上ハ 如何なる上ぞ と云 答
ゑけらく 吾ハ国津上 狭霧大掃の命なり
吾ハ隠ら場にあり 言なウ と云 故 妃の
命 告りたまイつらく 汝 翁の上 吾を天
昇しになしてよ と 告りたまイき 故 然
れば 吾に肩ぶりませ と云 諾べ と告り
たまイて肩ぶりますに 高天之原に天昇した
まイき ここに臣の上たち 共に議りたまイ
て 天津御子の命 御妃の命 二柱の御像代
を埴以て作らしし所を土師と云 これの御像
代を 大宮を太敷きまつる所を 御宝の本津
山と云 その御食を作りし所を にイた と
云 八百萬の神たちの 綿田に参越したまイ
て 集ゐたまエる所を 荻 と云 御像代を
賞めたまウ所を 判太 と云

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34,15
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ここに日高日子波限建鵜葺草葺不合 五十
三代彦の命 産御名ハ 天開明志国柄の命
天の下を知ろしめしたまイて 御妃の御名ハ
若高姫の命 こハ 四十九代の天津御子の
命の御子なり 向妻の御名ハ 白日姫の命
こハ 同じ天津御子の命の御子 梅賀枝姫の
命の御子なり 御妾の御名ハ 言樫姫の命
こハ 岩土船作持の命の御子なり 側禰女八
人 故 御妾 言樫姫の命の御腹に生れませ
る御子の御名ハ 天押開別の命 次に 向妻
白日姫の命の御腹に生れませる御子の御名
ハ 久米姫の命 次に田村主戸開の命

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34,16
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次に御妃の命 御孕みたまイて 大土 小
土に取りなし 神冴エに霊熟き 斎熟きます
からに 臼杵の大之浜に産室を御建てて 御
輿入ります時ハ 黄昏時に 東 明り輝きて
高天之原ゆ 天照日之大御神の像代 これ
の産宮に入らせたまイて 憑りまします時に
御妃の命 頻波を打たしたまイて産まつる
ハ 玉の如なす彦御子現れたまイき 故 稜
威御子の御名ハ 高天之原輝透国知の命 と
申す 大御名ハ 日高日子波限建鵜葺草葺不
合 五十四代彦の命 次に 久米姫の命 こ
れの久米姫の命ハ 火守之男玉柏の命を召さ
したまイて 産ませる御子の御名ハ 久米依
姫の命 次に 鳴瀬之男の命を産たまイき
故 これの久米依姫の命ハ 五十五代の命の
妃に立たしたまイき また 鳴瀬之男の命ハ
明玉弓手の命の御娘 鳥姫の命と御娶ゐま
して 明玉の家継の君とならせたまイき 天
津御子の命の御子 田村主戸開の命ハ 内の
宮の所の司に立たせたまゐ また 白日姫の
命ハ 思金座掛之男の命の夫人にならせたま
イき また 側禰女の御子 彦御子二十二人
ハ 大御田族とならせたまイて 国々の覇精
高上とならせたまイき また 姫御子二人ハ
長道春日の命の夫人にならせたまイ 大土磯
貝の命の夫人にならせたまイき

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34,17
-------------
ここに天津御子の命 高津上たちに告りた
まイつらく 国々 島々の百千萬の現しき青
人草の眞栄しを祷きて 国の幸わゐまさに
と云 故 臣の上たち諾べなめき 故 国の
毎 島の毎に 天津神たち 国津神たちを招
きまつらにの為に 宮代を建てて幸栄を祈り
まさめ と云て 更に上たちに告りたまイて
言挙げたまイき 故 建日の国の宮代造り
の 国の幸栄を祈りの上たちハ 思金座掛之
緒の命を司人となし 御桙速蘇我の命を取り
物首となし 広桙国間の命を建人となし 久
那斗深海の命を且守の首となして 霧島の山
に然々に祈りまつりて 月の毎の神楽なし祷
みまつる 奇日の国 然すかに 科長戸別之
祖の命を司人となし 御年香久岳の命を取り
物首となし 活玉御照葉山の命 国建となし
枳値可美盛彦の命 且守の首となし 児湯
山に然々 豊日の国 然すかに 天懸豊持の
命 司人 明玉弓手之眞見の命 取り物首
手置栲之木立の命 建人 明玉弓人の命 且
守首 彦山に然々 白日の国 然すかに 国
懸原薙の命 司人 厳山風の命 取り物首
積羽門代の命 建人 白羽避窓の命 且守首
原山に然々 愛媛の国に然すか 金山久味
の命 司人 羽山八俣の命 取り物首 香山
弓削の命 建人 白羽幸窓男の命 且守首
久万山に然々 飯依の国に然すかに 金山千
秋百秋の命 司人 大屋内禰狭身の命 取り
物首 山咋種殻の命 建人 白羽幸窓の命
且守首 香山に然々 大宜津の国に然すかに
弥都波日根深美の命 司人 沖疎夕去の命
取り物首 足羽雪毛の命 建人 羽槌綱繰の
命 且守首 徳山に然々 建依の国に然すか
に 埴安瓜子の命 司人 宍土長腰の命 取
り物首 笹津常主の命 建人 大雷御管の命
且守首 畑根山に然々 穴門の国に然すか
に 埴安五十時男の命 司人 国押敷言知の
命 取り物首 秋津於賀玉の命 建人
雷幸草の命 且守り首 鴨山に然々 出雲の
国に然すかに 燿天津明の命 司人 底土降
彦の命 取り物首 沖津八雲路の命 建人
甕土鬼取の命 且守首 仁多山に然々 吉備
津の国に然すかに 大屋時墨の命 司人 佐
須良白安の命 取り物首 速間逆波の命 建
人 武市岩上の命 且守首 稲葉山に然々
丹波の国に然すかに 秋津竃守の命 司人
八俣季人薬の命 取り物首 御年高松の命
建人 甕玉連木名の命 且守首 海部山に然
々 日下根の国に然すかに 直日数田櫛の命
司人 山津見国木別の命 取り物首 磐境
長科の命 建人 岩柝連矢持の命 且守首
久我山に然々 秋津根の国に然すかに 言代
葛楮の命 司人 目一箇薦恵比須の命 取り
物首 闇戸珍苫の命 建人 山背幸取の命
且守首 宇陀山に然々 淡海の国に然すかに
積羽事笠の命 司人 須勢理名瀬垣の命
取り物首 香山若屋玉の命 建人 甕槌熊男
の命 且守首 こわき山に然々 伊勢津の国
に然すかに 積羽萬踏別の命 司人 大土道
足彦の命 取り物首 味丹生自の命 建人
木之俣海上の命 鋤守首 たなきし山に然々
狭依科の国に然すかに 日別楯別祖の命
司人 底土之上の命 取り物首 眞見事足足
尼の命 建人 剣立髪の命 鋤守首 伊奈富
山に然々 遠津海の国に然すかに 鳴海荒駒
主の命 司人 楫立活日の命 取り物首 熊
野天之斎里の命 建人 木之俣口臣の命 鋤
守首 かみのふと山の南に然々 无邪津海の
国に然すかに 蘇我部高須の命 司人 少名
厳耳の命 取り物首 須々美清種の命 建人
楮梳座置の命 鋤守首 利根岸山に然々
野陸の国に然すかに 御年神楽守の命 司人
活玉住越の命 取り物首 活津泡芹の命
建人 衝桙柾安の命 鋤守首 佐位山に然々
常陸の国に然すかに 高桙種棚男の命 司
人 物主御船の命 取り物首 苫子鄙風の命
建人 御名方御靱子の命 且守首 門之信
太山に然々 陸奥の国に然すかに 大屋綿山
の命 司人 三降厳目綾の命 取り物首 水
上御屋部負の命 建人 穂日長時の命 鋤守
首 ならかべ山に然々 越根の国に然すかに
赤土清滝の命 司人 大土時居の命 取り
物首 狭土壬生宮の命 建人 日鷲気猛牛の
命 鋤守り首 佐柿山に然々 双児島に然す
かに 燿玉代の命 司人 事勝田中彦の命
取り物首 狭霧梅君の命 建人 楫立去円日
の命 鋤守首 きなゑのと山に然々 狭手依
島に然すかに 鳴海殿根の命 司人 久米之
出湯の命 取り物首 雲根手長男の命 建人
村雲萩野の命 鋤守首 かなほみ山に然々
天一箇柱島に然すかに 言代眞名臣の命
司人 久比奢母智御名迫の命 取物首 煩日
之若の命 建人 天熊是笠の命 鋤守首 黄
金山に然々 天之忍許呂島に然すかに 国懸
敷守の命 司人 山津見金形の命 取り物首
八耳櫛御影の命 建人 手置粕倉の命 鋤
守首 空虚高円山に然々 斯く【臣の上たち
を国廻なして】天津大神 国津大神を 常世
に斎き祀らしめて 現しき青人草の幸わゐを
祈らしめたまイて 安国の楽し国に幸わゐを
祷みて 奸る鬼 悪じ鬼在らせすて 平らに
緩ぶる身の上に楽しみ 幼び男愛じ 厳し
男まそなし 逸男業学し 益良男業成 受家
男家内選り 眞受家男勝り 千努男戸知れ
眞千努男郷知れ 栄男天知れて 老ゆも若き
も 現座に 朝 夕べに 御食足らわし 衣
足らし 家毎足らしに 月の毎の神火焚ぎ仕
エ足らし 天津火足らし 世の上の千足る高
天之原の御代 並めなさしたまわに
-------------
34,18
-------------
と云て 御親からに 臣の上を一人 二人
共に 現しき青人草に身成りを絡げたまイて
豊日ゆ穴門に出立たしたまイ 東の極み
北の極み 南の極みに出往きたまゐて 二年
経にきましき 故 それの時に 野陸の御多
気野を踏み迷わせたまイて それのふそとな
る一つ家に立ち寄らせて 宿を請わしたまウ
に 翁窺間見て驚き 媼に言けらく 此ハ弥
ごとなき上ぞ 彼処の御子こそ 天津日高の
御子ならめ と云て やがて家内を清まりて
八節の菅薦を八重敷きて 戴き入れまつり
て斎きまつる
上津文 三十四の綴り 完エ

-------------
35,1
-------------
上津文 三十五の綴り
ここに 翁と媼と申しけらく 御宿奉りつ
れど 御饗エ奉るべら覚エず これに稗の飯
炊きの侍らウ 故 奉らにヤ と云 太玉夕
波戸の命 告りたまわく 道往き疲れて饑き
なり 故 いちかウ ここに翁と媼とハ 山
成しの膳に眞柏葉を交イ敷きて くるさめの
秀瓦に飯を盛り 左の前津物となし 川魚を
煎りて くるさめの平瓦に高盛り 右の前津
物とに供ゑて 御饗エまつる時に 天津御子
の命 太玉夕波戸の命 目見したまイて こ
れの膳の据ゑ物のうらぶれを 訝しみたまイ
て 御箸も上げさせたまわずで 置き添イた
まウ時に 今宵ハはやれの月円日なる御空晴
れ渡りて 月も隈無に冴ゑ冴ゑし 折から俄
かに疾風起きり吹きて 大空掻き暗れて 荒
雨頻りて 大地動き地震なす
-------------
35,2
-------------
ここに栄男と覚しき翁 二本の杖に縋り
頭の白毛を掛けし髻に輪なし 左右の御角髪
毛末を垂らして 隠り衣を着さし 腰太の
袴を帯ばしてみひり受けの衣肩帯の締め結イ
て 八もこもに立たしたまイて 御声高に告
りたまわく 天津御子の命の御身 太玉の裔
よ これの饗エ 勿 食イそ こハ禍鬼なり
年久に現人を害なイ悪ず 今 天津御子の
命を害なイて 己が食しなさにとて奸ぶる
故 暫し御心弛たに見そなわしたまゑ 吾
これの禍物を立ち処に逐わに と云時に 荒
雨荒降り 稲光頻く々々に眼を衝き 雷 山
川に降り応ウ時に 禍雷落ちて これの翁
媼が頭に落ちかかれると 二人の老イ人 か
がらみ声に唸り鳴きて死にき 故 天津御子
の命 告りたまイつらく 汝神ハいづれの神
にし在さば 吾を助けたまエる と云 ここ
に 彼の翁 平手を拍ちて 吾ハ磐柝根柝の
命なり これの二人の禍らを見たまエ と云
て やれこしの逆手を短く打たしたまエるに
御空晴れ渡り彩とる 故 その奴の罷れる
状を見れば 八十尋なす山蛟になもありき
故 奴が腹臓括れ出て 大蛟かながりに成る
ハ黒蛟 ふかどに成るハ黒蛟 其が尻に成る
ハ尾切れ蛟 これの蛟 尽々に荒波を打ちて
ほだく 故 天津御子の命 太玉夕波戸の命
御佩かせるかづま剣を抜きて 大蛟を斬り
さみたまエば 外の蛟 雨の如に降りたたり
来て 尻巻きなす 故 二柱の上 持たせる
貴玉に 千萬の蛟を打ち殺しましたまイて
木立 草立を斬りて 火を鑚り 蛟が死去に
失せ骸を焼き棄てたまイき

-------------
35,3
-------------
また 飯依 讃山を歩きたまウ時に 時じ
くに日の傾きて 夕べとなりき これの辺に
人邑も無く 唯に葎なす野原にあり こハ
何どか為に 躊らウ時に いししりなしつる
に 其の山峡ゆ童二人 特牛に秣を負ウせて
竹合イを打ちて 歌イつつ越し来
栄き御子 臣の上かき
道舁き迷イ 野原舁き
日陰ハ暮れぬ 宿垣無しに
かきまゐど 宿垣得に
と歌ウ聞きて 其の童に告りたまイき 今
歌の如に 宿を教エてよ と云に 童頷かし
指差して 先立ち往くに 後辺ゆ 跡追イ
及く
-------------
35,4
-------------
麗しく立てる於賀玉の木あり 其の木の許
に 受家男 受家女出迎斎きて 室戸に招き
入れまつりて 御饗エまつり いと足しなす
故 天津御子の命 臣の上 共に訝し思ほ
して 告りたまわく 斯く 慥に吾等を愛で
賞めまますは 如何なる神にそも と云 吾
ハ眞栄小戸座敷羽原人の御祖 天之座戸 国
之座戸 高天之原の高知り星の神なり と云
故 二柱の上ハ 暫し日を憩イたまハば
天地萬に御光を漏らして 現人に幸わイたま
エる三柱の大御神の 大詔りの御賢しを言伝
てまさに と 申す
-------------
35,5
-------------
故 天照大御神の大詔りに 吾が石屋に籠
もれるゆ 常しえに 黄泉津の荒ぶる悪じ鬼
多に追イ出て五月蝿なし 千早振り猛び【
みなに沸き ほもこに沸き】種津実奪り 物
掠め 女掠めなす 故 現人賢し心無く 夢
心なす 汝兄の命 天降りて 荒ぶる鬼共を
逐イ 安国の楽し国に仕エてよ と 告りた
まイき
-------------
35,6
-------------
夜見照大神の大詔りに 天津秋玉の命 天
津身位彦の命に告りたまわく 現しき青人草
ハ吾が慈しみ護る玉なり 禍事を有らせず
豊く幸くなして 顕わ事を成さしめて 現つ
得隠りなば 星の神と称ゑて 吾が高天之原
に天昇して斎かせてよ と 告りたまイき

-------------
35,7
-------------
国照大神の大詔りに 国内の禍なす頑狂れ
前祷言 後祷言 八族犯しの悪じ人 毛物
這ウ虫ぬびも珍の現し人に憂れなす 直ち
に殺し尽して 豊道之原の禍心なす鬼も逐ゐ
て 穏び御世に幸わゐを守りてに と 告り
たまイき
-------------
35,8
-------------
また 副ゑて 大穴牟遅の命 少名牟遅の
命 猿田牟遅の命の 常世の祝言の言伝てに
現しき青人草ハ 躰身清く 魂あらるく
誠心足し 此に禮業仕エまつらば 吾ハ天翔
り 国翔りて 家内親族 家族 病イあらせ
ず 幸栄に守りえなりハ厳の眞吉風を下し
昼守り 夜守り 生命長く守り 隠らわ神業
を守り 禍津魂を逐わに と 告りたまイき
ここに天津御子の命 太玉夕波戸の命 宮
還りたまイて 更に 臣の上たちを集ゑたま
イて 其の大神の言伝てたまエる 天地三柱
の大神の御詔りをもじりの再見手を 楮布に
唱わしめて 国蒔きたまイき

-------------
35,9
-------------
五十四代の天津御子の命 久しく病イに臥
したまイき 故 児屋神立の命 天津御子の
命の御病イを訪らゐたまウに 告りたまわく
吾が臥しハ病ウならじ 唯に 現人の 吾
に荷前奉る 年の毎に殖えて 国の穂倉多な
す 故 大御田族の 吾に事ぶり 臣の上た
ちを賄ウ いと忠誠たちなり されど 吾ハ
進田多なし 臣の上たちも進田多なす 大御
田族 各も各もに 家内食しの種津田にこそ
あれ 其の荷前 吾に奉りてハ 現人 皆
貧しくならに 斯くなしてハ 吾が天津罪を
祓ハに所無し と 思ゆ 故 汝 吾が罪を
助けね と云
-------------
35,10
-------------
ここに 児屋神立の命 吾も斯くぞ思イき
こハ国内の弁別なり 直ちに役絶りてに
と云て 中臣押国五百手の命 表春樫山の命
下春祝詞大人の命 斎部楮眞座の命 太玉
波戸の命 思金鶏之男の命 足尼鎌立彦の命
思金清男足の命 科長戸別御祖の命 燿手
長の命 弥都波栄瀬待の命 埴安笠掛の命
懸豊手の命 懸原凪の命 金山山窪の命 積
羽菱根の命 大土狭丹売の命 甕明代の命
大屋田高の命 積羽斎言之男の命 直毘新玉
の命 事代眞中臣の命 雲根狭田主の命 日
別山戸の命 鳴海荒彦の命たちを 神集イに
集ゐまして 天津御子の命に奉る荷前の い
と多なるに 大御田族のたしれども いと心
憂きますゆ 悩み臥さして 論イますことの
天津罪の祓エ事に仕エてに 如何にヤも
と云 ここに臣の上たち 皆 心染みて憂き
事をます 此を以て また 八百萬の神たち
に言依せたまウに 皆 良わずて 天津罪を
問わせたまイき ここに佐勢理矢之音の命
佐勢理種余の命 佐勢理若峰の命 諸臣たち
の言依せ良わず 荷前多なさば 天津御子の
命の宮内にありて 臣の上たちのえ足らしな
す 故 必ずしも 荷前太からしめて 各も
各もにはなばしに世過ぎせね と云 ここに
高津上 明津上 清津上 厳上 並上 諸々
眞細けく聞こし召したまイて告りたまわく
汝 三人の上たち 斯く禮無く論らウハ
奸る上なり などて 吾が諸々の禍人に類べ
て物言と 皆 怒り面火照りて荒ぶ ここに
三柱の上けほらして 吾ハ人皆の臣たちの縁
以て言挙げなす と云 諸上たち 汝ハ大御
田族を害ウの上なり と云 故 中臣神立の
命 太玉楮眞座の命 直ちに怒りて 汝ハ憎
かりつる上なり 心の汚き奴にしあれば と
云て すなはち これの三人の上の片眼を抜
がしめて 奇日の島に 神逐イに逐イたまイ
き 故 これの島を籠島と云

-------------
35,11
-------------
ここに天津御子の命 臣の諸上たち 現人
を愛しみたまイて 荷前受けじ と 言ふり
たまウに 国の国々 島の島々の青人草 皆
国内の攘ら屋に参出て申す 如何なれば
奴々が荷前奉るに 取り上げまつらぬハ 現
人を石木に類ウよ と云て 皆 泣きて止ま
す ここに天津御子の命 八百萬の臣の上た
ち 皆 嘆かしたまイて 荷前多得ば 天津
罪称ウ 得ならでハ現人の嘆きなりて 良わ
ず 故 今ゆ後 荷前を許して事なウ 然れ
ど 多なさば得許さじ 僅寄さを許せ と
告りたまゐき
-------------
35,12
-------------
故 現人に告り伝てたまイき 国の国々
島の島々の青人草ハ 皆に皆に 男も女も厳
し人にならば 常世に天津大神たちの訓り伝
ての隨に 兵術を学びて 外津世人の襲ゑを
よりて攘エ また 薬掘り人ハ 臣の上たち
術為せ また 牛と馬とハ牧山に広めて多子
を育め 此ぞ現人の常並べなり また 大御
田族ハ種津術を訓りて 御田族を豊道之原に
蒔き賄エ 工人ハ其の訓り術を守りて 大御
田族に賄エ 八百人ハ其の訓り術を守りて
大御田族に賄エ 商人ハ其の訓り術を守りて
大御田族に賄エ 海漁人ハ其の訓り術を守
りて 大御田族に賄エ 山狩人ハ其の訓り術
を守りて 大御田族に賄エ 物人ハ其の牧山
の訓り術を守りて 大御田族に賄エ と 此
告りたまイき

-------------
35,13
-------------
ここに 国押訓知の命ハ 御祖 太敷之男
の命の御力を受けて 其の身の力強くありて
一か米の俵成しを右手に載せて 眼の上差
しに五十度余り擡げなす 故 国に並める者
無くでありき これ上 山狩りなすに 弓矢
も持たで 捕エて拳殺す また 石礫を撃た
すに 二町を通す
-------------
35,14
-------------
故 なよなの月籠もる日の夜に 那須山に
狩りするに 獲物無くて その道を踏み迷イ
て みやまこぼろに往き出て憩エる時に い
と麗しき少女の統べし元取りて 袖長の衣に
火色の袴を着て 桧の扇を持たして告りけら
く 如何なれば 国押の上 吾が隠らわに参
来て怪しふる と云 毛物狩りに迷イぬ と
云て 思ゑらく 此ハ山醜女ならにと 一丈
余りなす転石を眼嵩に差して 投げ放ちます
に 彼の少女 そを事無しに受け抱かゑて
美し益良男 と云て 其の石を手振らしなす
に 逆さまに昇りて 跳りなし 飛び去りき
そを目見て訓知の命 いと畏みておおく
故 少女告りたまわく 汝ハこれ 国照大神
の御子 天之国押の命の裔上なり 吾ハこれ
干速日の命の御子 武甕槌の命の弟 建速
日の命の裔にして建日姫の命とハ吾也 吾ハ
これの那須山の隠らわにある上なり されど
現つの妹に会イて 豊道之原の諭し事を知
りて 勤しなば 今 南の禍人 五月蝿て
灘に参居る 故 そを逐イね と云からに
吾君夫とならに上ハ汝なり 故 吾に婚イて
にヤ と云 宜べ 婚わなと云

-------------
35,15
-------------
故 家内に伴イ入れまつる時に 少女が祖
上 干速八巣宅の命告りたまわく 汝 国押
の稚児よ 吾が娘を御妻となさば 今 其の
家に伴イて 現しき幸わゐを守りて 南海に
八十の奸る禍船参居る 故 これの天の遣り
弓 天の遣り矢を 婿適ねの引出と與ゑて
また 娘にハ とりしくの黄金きに摺りの白
金を餞別と與ゑて こを以て 男子ハ其の弓
矢以て呪じ訓りて 南 そのあわ星を目掛け
て 引き狙でよ また 女子ハ これの黄金
白金を 南の御空に向かして あわ星 ま
と星の合わゐに 息吹き上げて 手逐ゐなし
て 男女上と向きに火吹きて ころうごろな
せば 其の禍船 其の灘に滅び失せにと 言
依さしたまイき また 吾が娘ハ これの隠
らわを離ちて 現つ場にあうらす 故 今ゆ
相見まく欲りせず 汝 二人共に 神道を
此 滞めなして隠れよ それの時に会わに
と 告りたまイて隠りたまイき 故 国押訓
知の命 建日姫の命を伴に 須木の宮に還り
たまイて 御父の命に 然告りたまイき

-------------
35,16
-------------
後に奇日のやきしまに 外津世の悪じ船幾
隻 これの島に泊つす夜に 尽々に火熱り燃
えて 船 海底に沈みて 人五人 海辺に打
ち上げたれど 死去にき こハ これの上の
神祈りの御言と皆人言き(注 以後 六十八
代迄 欠本)
-------------
35,17
-------------
ここに 日高日子波限建鵜葺草葺不合 六
十九代彦の命 産御名ハ 神足別豊鋤の命
天津神宝 三具ゑを 大父命ゆ 高御座に戴
きたまイて 天の下を知ろしめさせたまイて
六十六代の天津御子の命の御子 玉科萬の
命の御子 葦潟姫の命を妃に召したまイ ま
た 六十七代の天津御子の命 御子 禮田乃
成咲姫の命の御子 沖中津姫の命を 向妻と
なしたまイ 六十四代の天津御子の命の御孫
柏上別の命の御子 大垣彦の命の御母ハ
六十六代の天津御子の命の御娘なり
-------------
35,18
-------------
これの御中御子 佐保姫の命を御妾となし
たまイ 同じ御腹の御子 青垣姫の命を 側
の御妾となしたまイき 故 これの二柱の御
子 物人の術に心入れますからに 神訓りの
心伝てに当たらせたまイき 先に天津御子の
命 二十にならせたまウ時に 山野に遊ばし
たまウ時 これの姉妹の女二人も 同じ野に
遊びたまイき ここに天津御子の命の 其の
少女二人のなりかたち 弥々に面容なす如に
いと眉目好し 心染みまして告りたまわく
汝 姫の命よ 吾 これの野に遠矢を放た
に 故 その矢を取りてにヤ と云 諾べ
と云時に またりやを切り放ちたまウ時に
姉女 走しづりて手握なす また 切り放ち
たまエば 妹女 走しづりて手握なす 故
天津御子の命 これの姫御子に御婚ゐましき
こに因りて御妾に召さしたまイき ここに
御妾 青垣姫の命 御孕み生れませる御子の
御名ハ若姫の命

-------------
35,19
-------------
次に御妾 佐保姫の命 御孕みたまイて
大つち 小つちに取りなし 神冴エに 霊熟
き 斎熟きますからに 大分の黒之小浜に産
室を御立てて 御輿入りに生れませる御子の
御名ハ 御母の命の御業を襲わしまつりて
神心伝物部建の命 こハ天津日嗣知らす御子
に在すからに 大御名を 日高日子波限建鵜
葺草葺不合 七十代彦の命 と申す 次に
科姫の命 次に 御中若彦の命 こハ 側禰
女 幸依姫の命の御腹に生れませる御子にあ
り 次に 御妃の命の産たまエる御子の御名
ハ 鳥姫の命 次に 沖中津姫の命の御子二
柱生れましつれと 産屋に亡りたまエり 側
禰女の命 併せて六柱在しつれども 佐田主
の命 峡山姫の命 これの二柱の御子ぞ生れ
ましき 故 御中若彦の命ハ 阿蘇の新宮の
首とならせたまイ 次の鳥姫の命ハ 宮野足
尼之大瀬の命に御婚イたまイき
-------------
35,20
-------------
ここに 奇日の建 彦根高別の命ハ 大海
原を経廻りて 島廻なすに 屋久呂島の辺を
漕ぎ廻みませるに これの島に人影の多なす
故 訝みたまイて 船を泊たして陸に上り
見そなわすに 荒男数多ゐ居る 故 其の
由を問わせたまウに それの言問イ分かたず
故 大宮に還りて 然々を申す ここに中
臣道柴の命 祝詞部道谷の命 斎部工長の命
斎部広桙の命 告りたまわく こハ 日別
立神の命 鳴海瀬越の命ハ 萬国の言問イを
知る上なり これの二柱の上を遣わして そ
の状を問わしめに と云 ここに二柱の上
その屋久呂島に到りたまイて 其の現人に言
問イたまウに申しけらく 奴々ハ 加羅支那
の者 王主 しにウ 甚 不祥くて 現人を
悩ます 因りて 滅びたり 奴 其が禍らイ
業逃れて 船に乗りて翔りて これの辺りに
来て 乗れる船 海瀬に懸りて砕けて 溺る
船人 十を三なし 二は亡る 一つハ生きて
奴々なり 故 罪手なさまじ 必ずしもに
勿 殺したまイそ と云 二柱の上 然々
を返り言申す

-------------
35,21
-------------
ここに 高津上たち共に議りたまイて 愛
媛の国 久万山の柵に張り家を多に建て敷き
食物の道具エ 山幸の道具エを入れて 異
人を五十人分けて その所に遣りて告りたま
わく 汝 これの道具エ以ちて 毛の荒物
和物を覓き取りて 常食となせ と 告りた
まイき また 狭依科の小諸山奥に 五十人
を分かち然々 また 陸奥の津軽に 五十人
然々 また 丹波の胡麻山に五十人然々

-------------
35,22
-------------
省略
-------------
35,23
-------------
ここに 速玉山田の命 妹 八百姫の命
事解桧之隈の命 妹 照手姫の命 渚沢友彦
の命 妹 樟姫の命 常世に手琴を弾かして
御楽しみたまイき 或る日 此を木以て作
らに と云て 然る樅の木を伐らしめて 其
の竹琴の鳴らし所の如に取り 穴切りて空と
なし 工人に仰せて鳴らし所をかとり 棹木
を角めて 糸巻を空杼作りて (省略)
其の鳴らし所を表裏に貼らしめて 棹差しに
三筋の姫糸を空びに巻き付けて 鳴らし所中
にこで山形に 糸掛けに糸張り渡して なす
木の小板を手柄となし そを以て弾き打たし
たまウに 其の音妙にありき 故 此を以ち
日の毎の楽しみとなしたまイき

-------------
35,24
-------------
【ここに 秋津根 日下根の国の香具山の
平ら麓に在す 覇精高の上 田成彦の命 幡
戸姫の命の御子 燿依姫の命 いと眉目美く
在しつるからに 皆人 御愛でて婚わにの心
もりあり ここに畝傍山の山らに在す覇精高
の上の御子 武見雄志の命 これの燿依姫の
命を婚わにと 此をれ幾日の夜毎に 通わし
たまイて 哀れ異しましたまイき また 耳
無山の頂に在す覇精高の上の御子 角見知の
命 この上も然々に こによりて 其の侍女
に賄ウ 武見雄志の命 そを掠み聞かして
また その侍女に賄う ここに 其の燿依姫
の命 相言に悶エて 術無み知らずで 熱か
ゐ悩み臥したまイき 故 その事を御父 御
母 そを知らしたまイて 疎ぶりたまイ 然
ハあれども これの逸り男二柱ハ 面勝ち負
けじ と云て 言違ゐますも 三年余りにな
らせたまイて えだしまつれども 止まずあ
りき 故 燿依姫の命 二男言違ゐを煩イて
思イ病イに罷る 此にゆ御父御母悲しみ嘆
きて 隠ら家に会わな と云て 大穴牟遅の
命に祷きまつりて 泣きつつも 其の屍の頭
毛を湯津爪櫛に取りなして 御灌ぎなさせて
眉毛を刷き 口歯を金涅の眞水に堅炭を粉
して かせぎ付けて 眞黒歯に染めなして
面にハ 白粉草の実の眞白粉を塗らし 口唇
にハ 火丹草の花汁を含まし 禮衣六重に着
さし 火丹色の腰太袴を穿かして 御頭に黄
金の鏡 鳥の插頭を被らし 御手に桧の扇を
持たしまつりて 奥津喪屋に舁き入れて 御
輿に乗せまつりて 香具山の頂に葬りまつり
て 隠らわに帰して 大穴牟遅の命 須勢理
姫の命の斎きの神と乞ゐ祈みて 祈りまつり
て称エ言に祝きまつりき 故 武見雄志の命
ハ畝傍の山の頂に洞場を掘り立てて 燿依姫
の命の幸魂を斎イまつり 角見知の命ハ耳無
山の頂に洞場を掘り立てて 燿依姫の命の奇
魂を斎イまつる】

-------------
35,25
-------------
ここに 日高日子波限建鵜葺草葺不合 六
十九代彦の命ハ年久に四百三十歳 天の下を
知ろしめさしたまイ 神事完エまつれば 日
嗣の御子に天津宣り伝ての神宝を授けたまイ
言祝ぎ申し 天津禮代 然々に 国津祭り
然々に 大分の御宝の西山に磐宮を敷き立
てて 告りたまイつらく 吾ハ天に返り言
を大神たちに申さに 故 これのみなつの月
立ての日に天昇してに 故 其の御宝の西の
磐室に幸魂を天降らして 天津日嗣の嗣ぎ嗣
ぎ 臣の上たちのつぎつぎを守りて 百千萬
に幸わイを蒔き散らさに と云て 高千穂の
大宮の殿所の板梯の足摺りに 暁に御冠を召
さし 火丹型の紺の空色の衽に 太伸りの蚕
布袴を穿かし 藁結ゐの足板の緒太を込まし
て到りましたまイます時に 側禰の臣の上た
ち 続きて御後ゆ添わしまつるに 天津御子
の命 紫雲に召されて 天津御空に翔けり
天昇したまイて 天津神に日之若宮に還りた
まイき
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35,26
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後に 百五十か日の時に 大分の西の御宝
山の頂の磐宮辺に 神賀楽の鼓 笛音 辿ろ
に聞こゑて 一日一夜 歓きの声聞こエてあ
り 故 六十九代の天津御子の命の弟の御子
天炊戸開の命 これの山の磐宮の辺に立た
したまイて 御扉を引き開き 見そなイたま
ウに これの天津御子の命の常並めの御冠あ
りき 此故に 昨日に神賀楽あるらに と云
此所の大御田族を集エたまイて 天津祝詞
の太敷きを告りて 種々の種津物を奉りて
現人 神楽に歌イて 八か日 七か夜 美ゐ
しく祭りき 故 此を以て神成りの葬り業に
仕エまつりて 去にし訓りの神伝てに 然々
に これの宮に祝りまつりて 神事に祈みま
をしき
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35,27
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またの伝エ 出雲文に言らく 故 日高日
子波限建鵜葺草葺不合 七十代彦の命 先津
御子の命の天昇したまイしからに いと
御嘆きまして 百五十か日余り経ましつれど
も 神祀り祝り業の訓り告りハ 如何に祭り
てに と云て ここに 臣の上たち 皆 申
す こハ高津上の御祖父 児屋道柴の命 今
当たる御齢ハ 三百八十三の齢を重ねまつれ
る翁に侍ります これの上ハ 天の下の去に
し世の訓り伝てを弥に高く守らしたまエる物
識りの上にし在せば これの上を召さしたま
イたまエ と 申す ここに天津御子の命
其の高津上 児屋道柴の命を召さして 告り
たまわく
遠津睦の天昇しまつれる時の祝り業 それ
のときしげを詳らに明かしてよ と 告りた
まイき 故 道柴の命 諾なイたまイて 天
邇岐志国邇岐志天津日高日子天津火之邇々芸
の命 国土を撫でたまイき 故 天降りの臣
の命たち 百八十六柱の上たち また 国津
上三百余り人たち 共に 勤労ぎまつりし隨
に詳らかに告らしして それの祷ぎ言に仰ぎ
たまイて 高天之原の天照大御神 御子の命
に大御言賜イて 星の神たちを添わしまして
天降りませ と 告りたまイき ここに天邇
岐志国邇岐志天津日高日子正勝吾勝勝速日天
之忍穂耳の命 北大星神天降りたまウ時に
其伴の神たち 天渡国渡襲百座志那都産霊の
命 風精星御祖の神 天津座高津座置清御魂
瑞之火産霊の命 火精星御祖の神 天冴流豊
道辺神御魂弥都波産霊の命 水精星御祖の神
天津降道萬眞栄斎美活太刀埴産霊の命 土
精星御祖の神 天御魂国御魂穿神常座金山産
霊の命 常星御祖の神 神御魂別国津清御魂
直毘産霊の命 彦星御祖の命 厳之幸守眞心
床辺速明津産霊の命 清星御祖の神 天大土
国大土大御守山津見産霊の命 高知星の神
天足国足潮津清見底土産霊の命 底星の神
天足国足潮津清見赤土産霊の命 赤星の神
天足国足潮津清見岩土産霊の命 岩星の神
これの星の祖の神たち 八百萬の御子の星の
神たちを率きて 御伴辺に立たしたまイて
日向の高千穂の那須端の大山に天降りたまイ
き 故 こを天降山と云 忍穂耳の命天降り
ましたまイて 国廻まして 現しき青人草の
幸わゐなすを 見そなわしたまイて
あやに美し 青人草
あ 楽し 眞栄人
と歌イたまイき 故 五年遊ばゐたまイて
天昇しまさにと装イたまイき 故 豊日の
由布の山ゆ 天昇したまイまつらに と云か
らに 大道標と大伴申さなとて 更に神たち
に任き人を仰せたまイき 御前人 臣の上た
ち二十余り 大伴幾人 御衣人 臣の上たち
数多 清み人 然々 このり司 然々 斎き
人 然々 八雲避幾人 花持ち幾人 御食人
幾人 幡物人幾人 傾頭人幾人 先人幾人
綿作り幾人 輿巻き人幾人 後辺人幾人 輿
舁き人幾人 神楽人幾人 明り人幾人 桙立
て人幾人 幡差し人幾人 伊吹き立て幾人
弓飾り幾人 太刀飾り幾人 味津方幾人 実
取り幾人 斎鈴持ち幾人 柝鈴打ち幾人 鼓
打ち幾人 笛吹き幾人 琴持ち幾人 竹琴持
ち幾人 面着人幾人 かなさび人幾人 蝿叩
き幾人 腰振り女幾人 歓き女幾人 衣立て
幾人 榊立ち人 於賀玉立て人 桂立て人
しりづり縄人 塩撒き人 水撒き人 松明持
ち人 火焚き人 蚕布立て人 麻布立て人
綿布立て人 種々物持ち 脛振り人 八百千
人なす 後辺の御伴ハ皇御孫の命 御輿屋召
す これの大伴八百人 国の人草ハ山野に火
焚き 幡立て 伊吹き下ろし 輿舁きて 大
伴の仕エまつる 大伴に天降りたまエる星の
神たちハ 小頸の山ゆ天昇しまつる 故 此
を天昇岳と云 天津日の大御子の命 木棉の
山に登らしたまエば 天津御空ゆ紫色の雲
頂を覆イて 間暫しほどありて 高天之原に
生き還エる これの日ハ ふくみの月籠もれ
る日次めにありけり 天津御子の命 臣の上
たち 共に 見上げ見送りまつりて 紫雲の
布なすを目見たまイて 御嘆きたまゐき 故
此を木棉の山と云 ここに天津御子の命
臣の上たち 大伴の上たち 国の現しき青人
草 共に 大宮還りましたまイて 大きなる
御嘆きましましたまイて 朝夕の御食進びず
であり
上津文 三十五綴り 完エ

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36,1
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上津文 三十六の綴り

ここに 天津御子の命は、直入(ただいり)の宮代(みやしろ)に戻られ、
御祖(みおや)の命が 常世(とこよ)の国へと召されたときに授けられた、
勾玉(まがたま)の御冠(みかんむり)と貴玉(たっときたま)とを、
大床(おおとこ)に鎮め祀り、

朝な夕な、
片時も離れることなく、斎(いわ)い祭られ、
朝の食事も、夕べの食事も 召し上がらず、
嘆き悲しまれて、 涙が止まらぬままに、朧(おぼろ)な日々を過ごされた。

そこで、
思金(おもいかね)の命、天之児屋(あめのこやね)の命、
天之太玉(あめのふとだま)の命らが、
様々に 慰めの言葉を申し上げた。

しかし、天津御子の命の御心は、なおも晴れず、
「ああ、これもまた、どうしようもないことか。
しかし、今は既に 初春(しはつ)の月が籠る日となり、
時はすでに過ぎてしまった。

いくら日を重ねても、
この悲しみが消え去ることはないであろう。
忍び泣きながら 袂(たもと)を涙で濡らすばかりで、
これが 運命であるならば、どうすることもできないのだろうか。」

そうおっしゃりながら、ついにお顔を上げられたが、
今までとは違わず、
やはり 泣き明かしてしまわれた。

そこで、天津御子の命は、
深い悲しみの中で、心からの言葉を発せられたのであった。
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36,2
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ここに、第七十代の天津御子(あまつみこ)の命は、
三百八十三歳になる老人、児屋道柴(こやのみちしば)の命が、
過去の世の古い言い伝えを語るのをお聞きになり、
「その言い伝えの例にならい、葬儀を行おう」とお考えになった。

また、第六十七代の天津御子の命の葬儀が、
とても畏れ多いものとして行われたため、
「それと同じように執り行おう」とお考えになった。

そこで、さらに、
高津上(たかつのうえ)、思金並藁(おもいかねなみわら)、
児屋鋤之大人(こやすきのおおひと)、太玉時成(ふとたまときなり)の命を召し、
「葬儀の作法を定めよ」と命じた。

そして、三柱の神々は集まり、
相談をして決めた。

葬儀の儀式と役割の決定
天津日嗣(あまつひつぎ=天皇の血統)の御子の命は、
八つの儀式を行うこととし、
高津上(たかつのうえ)たちは七つの儀式、
明津上(あけつのうえ)たちは六つの儀式、
清津上(きよつのうえ)たちは五つの儀式、
厳上(いわのうえ)たちは四つの儀式、
並上(なみのうえ)たちは三つの儀式を行うことになった。

また、大伴(おおとも)の長(おさ)は、
両足をしっかりと揃えて慎み深く構え、
この世に生きるすべての青人草(あおひとくさ=人々)は、
それぞれの先祖の例に倣い、葬儀を行うことが定められた。

葬儀の準備と役職の配置
葬儀の準備として、
次の役職の人々がそれぞれの役割を果たした。

先人(さきびと) =葬儀の指導者
衣人(ころもびと) =衣服の準備をする人
食人(たべびと) =供え物の準備をする人
奴人(やっこびと) =葬儀の雑務を担う人
清み人(きよみびと) =清めを行う人
斎き人(いつきびと) =祭祀を執り行う人
幡人(はたびと) =旗を掲げる人
八色幡人(やくさのはたびと) =さまざまな色の旗を掲げる人
禮花人(れいかびと) =儀式用の花を準備する人
海魚人(うみさかなびと) =供物の魚を用意する人
藻菜人(もなびと) =海藻を準備する人
山菜人(やまなびと) =山の野菜を準備する人
野菜人(のなびと) =野菜を準備する人
御田津物人(みたつものびと) =米を準備する人
畑津物人(はたつものびと) =畑の作物を準備する人
また、
楮布(こうぞぬの)の大和幣(やまとぬさ)を八重に織り、
飾り弓人(かざりゆみびと)、飾り太刀人(かざりたちびと)、
飾り桙人(かざりほこびと)、飾り鉈人(かざりなたびと)、
伊吹幡人(いぶきはたびと)、中らいぶ人(なからいぶびと)、
三つの樹の三つ飾り人(みつのきのみつかざりびと)、
木綿ふかし人(ゆうふかしびと)、草綿ふかし人(くさわたふかしびと)など、
数多くの役職の人々が、それぞれの仕事を担った。

さらに、
黒漆(くろうるし)に塗られた勾玉(まがたま)を飾り、
黄金(こがね)、白銀(しろがね)の綾織りの布を使い、
立派な御輿(みこし)を作った。

葬儀の進行
そして、
御輿(みこし)を清めるために、
狭知道之負辺(さちどうのおいべ)の命が火を灯し、
真火(まひ=神聖な火)の光を輝かせた。

天津御子の命が、
常にお座りになっていた大御装(おおみそなえ=神聖な衣装)を、
神の身代わりとしての木彫りの像に刻み、
奥津喪家(おくつもや=葬儀の場)に据えた。

また、
葬列には、以下の人々が加わった。

御輿人(みこしびと) =御輿を担ぐ人
賀楽女人(かぐらめ) =神楽を舞う女性
賀楽男人(かぐらお) =神楽を舞う男性
歌ゐ人(うたいびと) =葬送の歌を歌う人
歓き人(よろこびびと) =儀式を盛り上げる人
面掛け人(おもかけびと) =仮面をつけた演者
高音人(たかねびと) =高い声で歌う人
鼓打ち人(つづみうちびと) =太鼓を打つ人
笛吹き人(ふえふきびと) =笛を吹く人
葬儀のクライマックス
葬儀の日、
暁(あかつき=夜明け)の時刻に、
鶏の鳴き声に合わせて、御輿を出発させた。

国中の青人草(あおひとくさ=生きている人々)は、
昼には幡(はた=旗)を掲げ、
夜には山や野に篝火(かがりび)を焚き、
光を照らしながら葬列に従った。

そして、
最終的に、
大佐井(おおさい)の御久原山(みくはらやま)に葬ったのである。

ここに、再び天津御子(あまつみこ)の命は、
中臣道柴(なかとみのみちしば)の命に問いかけて、
「葬儀(喪祀り)の儀式は、どのように行うべきか?」とお尋ねになった。

すると、中臣道柴の命は次のように答えた。

葬儀の飾り付けと儀式の詳細
まず、**大御目辺(おおみめべ=祭壇)**の前に、
榊(さかき)の上の枝には、五百個の神聖な玉をかけ、
中ほどの枝には、太鏡(ふとかがみ)を取り付け、
下の枝には、白い布をかける。

また、
於賀玉(おかたま)の木の上の枝には、神聖な鈴(斎鈴=いみすず)をかけ、
中ほどの枝には、柝鈴(たくすず=音を鳴らす鈴)をつけ、
下の枝には、小さな太鼓(割子鼓=わりごつづみ)を設置する。

さらに、
桂(かつら)の木の上の枝には、桧(ひのき)の扇を広げて掛け、
中ほどの枝には、青い麻布を掛け、
下の枝には、貴重な玉(貴玉=たかたま)を掛ける。

また、
楮布(こうぞぬの)の青い布と白い布を神聖な幣(へい)として用い、
八本の神聖な串を立て並べる。

さらに、
楮布の厚い白布を六枚垂らし、
それを両手で裂き、
その裂かれた布を桧の串に結びつけ、
神の魂が宿る座(御魂座=みたまくら)として祀る。

また、
麻(あさ)と栲(たく=木綿)を裂き、神聖な供物として奉納し、
大竹(おおたけ)を細かく裂いたものに、
楮布の赤い布を張り渡し、
小さな竹の柄を持つ傘を作り、それを掲げる。

幡(はた=旗)の準備と装飾
また、次の**八色(やくさ)の幡(はた)**を用意する。

紫色の幡
火丹(ひに)色の幡(赤みがかった色)
黄色の幡
黄金色の幡
空津(うつほ)色の幡(空のような色)
青色の幡
赤色の幡
白銀色の幡
これらの幡の上部を貫いて竿に差し込み、
人の背に負わせて掲げさせる。

また、
伊吹(いぶき)の幡を十二本用意し、
八本を「あたれ」、四本を「あだれ」とし、
さらに十六本の「あだし」を立てる。
葉色(はいいろ)、土色(つちいろ)、水色(みずいろ)、火色(ひいろ)
の四色の幡を杉の幹に吹き立て、
それを四人で担ぐようにする。

武具・供物の準備
また、以下の装飾品を準備する。

飾り弓(かざりゆみ) を 二並め、四並め、六並め
飾り靱(かざりゆき=矢を入れる筒) に 二十矢立て、四十矢立て、六十矢立て
飾り太刀(かざりたち) を 二並め、三並め、四並め、五並め
横太刀(よこだち) を 一つ掛け、二つ掛け、三つ掛け、四つ掛け、五つ掛け
飾り鉾(かざりほこ) の穂先に 鳥毛や麻布を装飾し、玉萼代(たまかがしろ)の鈴を付ける。
また、
山の恵みとして、以下の食材を用意する。

堅節(かたぶし)=乾燥した魚類
大きな海魚の鰭(ひれ)
小さな海魚の鰭
沖で採れた藻(沖津藻菜=おきつもな)
海辺で採れた藻(辺津藻菜=へつもな)
山で採れた玉菜(やまつたまな)
野で採れた玉菜(のつたまな)
山の辛菜(やまつからな)
野の辛菜(のつからな)
山の甘菜(やまつあまな)
野の甘菜(のつあまな)
さらに、
藁(わら)の穂で包んだ十四種類の穀物を供える。

賀楽(かぐら)を舞う人々の装い
また、賀楽(かぐら)を舞う女性 八十人を飾り付ける。

髪は結い上げ、垂れ髪を花結びにする。
髪に生花を挿し、眉を整えて黒く塗る。
歯を黒く染め、白い布の着物に火丹(ひに)色の袴を履く。
顔には粉白草(ふんぱくそう)の実を塗り、
額には黒い星形の模様を描く。
唇と頬には、火丹草の汁を塗る。
衣装も袴も、全て神聖な儀式のための装いとする。
また、賀楽の男性 も同様に、

髪を結い上げ、袴や衣服を神聖な装いにする。
彼らは笛を吹き、鼓を打ち、琴を奏で、竹琴を弾く。
葬儀の進行
儀式が終わった後、
天津御子の命は
「喪の儀式に従い、御像代(みかたしろ=遺体の代わりの像)を供え、
朝夕の食事を捧げる」と命じられた。

そして、
十二の御膳を奉納し、
御魂(みたま=魂の座)が鎮まるように、長く斎(いつ)き祀った。

そのために、

高く並べた祭壇の上に、粗い床を設け、三節の藺簀薦(いすごも=敷物)を敷いた。
稗(ひえ)の飯を水で炊き、
御菜(おんさい=おかず)は、甘塩(あまじお)と堅未醤(かたくちひしお=熟成した魚醤)を用い、
長い日数にわたって、慎重に祀った。
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36,3
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ここに、天津御子(あまつみこのみこと)の命が統治されて五十五年目のこと。
加羅(から)や支那(しな)の国の王から、ウテキ(外国の使者)が派遣されてきた。
その使者の名はハクリキ(はくりき)という。

この年の春(けさり)の初めの日に、彼らは白日(しらひ)の鰐門(わにと)に船を泊めた。

そこで、白日建(しらひたけ)の命と、活玉羽賀美虫(いくたまはがみむし)の命が、迎えに出向かれた。

ここで、ハクリキが申し上げた。

「私どもの国、奴国(なこく=加羅の属国)の王は、国内を不安定にしてしまいました。
そのため、国の民(青人草=あおひとくさ)たちは皆、苦しんでおります。

聞き伝えておりますに、貴国(あなた方の国)では、
毎年のように種津実(たねつもの=穀物の種)を恵んでくださり、
そのおかげで、私たちの国は平和で豊かでございました。

しかしながら、今の王は傲慢になり、悪事を働いております。
そのため、加羅(から)や支那(しな)の国々の安定が乱れ、
平和な世が失われてしまいました。

どうか、天津御子の命よ、
私どもをお助けいただき、加羅・支那の平和を取り戻してください。
このことを心よりお願い申し上げます。」

この嘆願を受けて、白日建(しらひたけ)の命は、使者ハクリキを伴い、
高千穂の大宮(おおみや)へと参上された。

これを受け、高津上(たかつかみ)は、自ら出向いて、使者の言葉を聞かれた。

使者ハクリキは、大宮の梯垣(はしがき=宮殿の垣根)に蹲(うずくま)き、
再び申し上げた。

「今すぐにでも軍勢をお送りくださるのでしょうか?
それとも、しばらくお待ちいただけるのでしょうか?」

天津御子の命は、しばし考え、こう仰せになった。

「まずは様子を見て、奴国に帰って報告し、
その時に、改めて使者を送って知らせよ。」

そうして、使者ハクリキは、一旦、自国へと帰っていった。

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36,4
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ここで天津御子の命は、家臣たちを集められた。

集められたのは次の者たちである。

中臣蟹住(なかとみのかにすみ)の命
斎部七戸(いんべのななと)の命
太玉田鶴嶺(ふとたまたづるね)の命
太玉葛原(ふとたまくずはら)の命
児屋大道(こやのおおみち)の命
中臣現世(なかとみのうつせ)の命
思金原玉(おもいかねのはらたま)の命
足尼工押(あしなのおし)の命
息長葛実(おきながくずみ)の命
科長天之伊邪村(しながのあめのいざむら)の命
懸建耳(かけたてみみ)の命
懸谷香取(かけたにのかとり)の命
金山七尾(かなやましちお)の命
金山彦柄(かなやまひこのえ)の命
弥都波菱取(みつはのひしとり)の命
埴安赤岳(はにやすのあかだけ)の命
埴安丹生津彦(はにやすにうつひこ)の命
燿任人(かがやくのとうど)の命
燿十束(かがやくのとつか)の命
大屋金代(おおやのかねしろ)の命
積羽高種彦(つみはのたかたねひこ)の命
直毘神富(なおびのかみとみ)の命
言代長彦(ことしろのながひこ)の命
積羽桜建(つみはのさくらたけ)の命
日別建神(ひわけたけかみ)の命
鳴海打越(なるみのうちこし)の命

これらの者たちは、大宮に参上し、神の御前で議論を重ね、過去の神々から伝えられた教えをもとに、戦の方針を慎重に定めた。

そして、戦の指揮を執る者として、
御鉾速曽禰(みほこのはやそのね)の命
大土山彦(おおつちやまひこ)の命
を 加羅支那を救うための大将軍 に任命された。

また、軍師(戦略を立てる者)として、
広鉾若熊(ひろほこのわかくま)の命
枳値可美狭実彦(きちかみさねひこ)の命
の二人を定められた。

さらに、戦いに赴く将軍として、次の者たちが選ばれた。

蘇我部速空(そがべのはやそら)の命
村雲武田彦(むらくものたけだひこ)の命
香立佐渡名大人(かたちさどなのうし)の命
明玉清彦(あけたまのきよひこ)の命
月鉾米倉(つきほこのよねくら)の命
沖避下山辺(おきさけのしもやまべ)の命
剣平手(つるぎのひらて)の命
須勢理磐武(すせりのいわたけ)の命
山背狭実分(やましろのさねわけ)の命

この将軍たち一人ひとりに、それぞれ 千人の軍勢 を配し、軍の編成を整えた。

こうして戦の準備を万全に整え、天津御子の命は、加羅・支那の使者が再び訪れるのを待つことにされた。
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36,5
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ここで天津御子の命は、長年の歳月を重ね、年齢を重ねるにつれて、身体も疲れを感じられるようになられた。そこで、天の下(この国)を統治する役割を日嗣の御子(次の皇子)に譲ろうとお考えになった。

そして家臣たちを集め、こうおっしゃった。

「私がこの国を治めてきた間に、一つの大きな過ちを犯していたことに今気づいた。それは、この国に生きる青人草(現世の人々)が、自身の生まれた意味や幸せを知らず、また、結婚や家庭を持つことの意味を知らず、さらには、死後の埋葬についても何も知らないまま、ただ生き、ただ死んでいくということだ。

これは、天津大神たち(天上の神々)の大御心に背く罪となるのではないか。この罪を償わなければならない。」

これに対して、高津上たち(重臣たち)はこう答えた。

「これは天津御子の命だけの罪ではありません。我々の罪でもあります。しかし、この罪を償う方法として、現しき青人草(人々)に正しい儀礼やしきたりを教え、祝福を授けることが必要なのではないでしょうか。」

これを聞いた天津御子の命は、次のように定められた。

「これからは、国の家々において、子が生まれたならば、
昼は八日、夜は七日をかけて祝いの儀式を行うように。
生まれて八日が過ぎたら、九日目に天津神を祀る。
十日目には国津神を祀る。
五十日目には覇精高神(生命の神)を祀る。
三歳の誕生の日には、八百万の神々を祀る。
七歳の誕生の日には、ひところむし(生を授ける神々)に感謝を捧げる。

また、婚礼の際には、清之八耳の命(清き心を持つ神)、八耳姫の命(夫婦の神)を招き、国の正しき礼儀を尽くして結婚を執り行うように。

さらに、人が亡くなるときには、
大穴牟遅の命(冥府の神)、須勢理姫の命(死者の守護神)、少名牟遅の命(再生の神)、大久米姫の命(魂を導く神)を祀り、祈りを捧げるように。

もし、誰かが亡くなったならば、故人に衣冠を着せ、重臣たちと共に喪家に祀り、御輿屋に安置し、私を祀るのと同じように葬るように。」

こうして天津御子の命は、この教えを国々・島々に広めるように命じられた。そして、天津神・国津神を祀り、大祓(浄めの儀式)を行い、罪を償うための捧げ物を奉ったのである。
-------------
36,6
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ここで天津御子の命、日高日子波限建鵜葺草葺不合七十代の命は、生まれながらにして神心伝わる武人である神心伝物部建の命であった。

この神心伝物部建の命は、六十七代の天津御子の命の御子である宗像彦の命の娘、矢野姫の命を正妃として迎えられた。

この宗像彦の命の母は、火明橿火の命の娘である鐸高緒姫の命であった。

さらに、向妻(別の妻)である若敷狭依姫の命は、六十八代の天津御子の命の孫にあたる。

また、妾の玉成姫の命は、積羽若種の命の御子であった。

側室の玉敷姫の命は、赤楯年彦の命の御子であった。

さらに、側仕えの女たちが八人おり、彼女たちはすべて臣の上たち(重臣)の娘たちであった。

その結果、生まれた皇子は三柱、皇女は四柱であった。

このうちの三柱の皇子が、天の下を継ぐ日嗣の皇子(次の天子)となる運命にあった。

その誕生のとき、矢野姫の命は御子を身ごもり、出産のために大地と小石を整え、神々をさえも敬い、慎み深く斎き、身を清めていた。

そして、臼杵の大之浜に産宮を建て、その場所に入った。

しかし、出産が始まるとひどく苦しみ、耐えがたい痛みに襲われたにもかかわらず、なかなか御子が生まれなかった。

そこで、薬師たちを集めて治療を試み、さらに薬草を採取してもらったが、何の効果もなかった。

こうして、五日と六夜が過ぎても痛みは収まらず、ついには矢野姫の命は亡くなってしまわれた。

このことを知った天津御子の命は、ひどく嘆き悲しまれた。

その嘆きを耳にしたのは、中臣道柴の命という、御齢三百五十余りの翁であった。

そこで彼は、息を吹き返させるための呪術(息呼ぶせの呪訓り)を施した。

すると、矢野姫の命は奇跡的に生き返り、こう語った。

「これは私の長い眠りの中で見た夢なのでしょうか?

夢の中で、火明の命という神が私のもとへ訪れて、こう言いました。

『お前の御子は、今、天津日嗣の御子(次の天子)となるべき子を宿している。

これは天津大神たち(天の神々)にとっても誉れであり、たいへん貴いことだ。

だから、簡単に産むことはできない。

これから百日間、天津神への神事を行い、神の導きを得るべきだ。

その後、この翁(中臣道柴の命)が瑞兆の神託をもって呪術を行うがよい。

もし、私を秋津根の班鳩の山の上に斎き祀るならば、天津日嗣の御子が永遠に世を守る存在となるであろう。』

私は夢の中でその神の声を聞き、目覚めました。

すると、まるで生き返ったかのような気持ちです。」

こうして、矢野姫の命は奇跡的に蘇り、この世に戻ったのであった。

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36,7
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ここで天津御子の命は、高津上の翁である中臣道柴の命に対して、

「その火明の命という神は、どのようなお姿であったのか、詳しく教えてほしい」

とお尋ねになった。

それに対して、中臣道柴の命は次のようにお答え申し上げた。

「その火明の命と申し上げるのは、天之忍穂耳の命の御子である天照国照彦火明櫛玉饒速日の命です。

この神は、天においては『御子星御祖の神』と呼ばれています。

この神は、皇孫の命(天孫)が天の下を統治される際に、

『そのための神聖な儀式を執り行おう』

と言って、天之磐楯船に乗り、臼杵の河内山に天降りなさいました。

そして、天津神から授かった神託による瑞兆の呪術を伝授されました。

その時、火明の命が伝えられたのが、次のような神聖な言葉でした。

【奥津鏡、辺津鏡、剣燿(つるぎのひかり)、生玉(いくたま)、足玉(たるたま)、死なず玉(しなずたま)、道守り玉(みちまもりたま)、蟹守り玉(かにまもりたま)、虫比礼(むしのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、蛇比礼(へびのひれ)、毛物比礼(けもののひれ)、物比礼(もののひれ)、一々、二々、三々、四々、五々、六々、七々、八々、九々、十々、百々、千々、萬々、布瑠部布瑠部、由良部由良部】

もし、この世に何らかの災いが起こるならば、この秘められた言葉を唱えて鎮めよ、

と神は告げられました。

ですので、火明橿日の命というのは、その大神の御子孫であるのです。」
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36,8
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ここで天津御子の命は、すぐに秋津根の班鳩山に大宮を建てられた。

そして、天照国照彦天津火之明玉饒速日の命、すなわち天津の御名を「御子星御祖の神」とされる神が天降られた際に、お持ちになっていた 天之羽羽矢 一つと 置靱 一つを、この宮の御魂代としてお祀りし、崇め敬い、斎きまつられた。

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36,9
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ここで、百日余りが過ぎたころ、御妃である 矢野姫の命 の御腹が頻りに動き、臼杵の 大之浜の産宮 において御子をお産みになられた。

その御子の御名は 天照国照彦百異日臼の命 であり、この御子は 日嗣の御子 であられたため、大御名を 日高日子波限建鵜葺草葺不合 七十一代彦の命 と申し上げた。

次に、高見香具山の命 が生まれ、またの御名を 高倉下の命 と称した。

次に、宇摩志麻治の命 が生まれ、またの御名を 大久米の命 と称した。この御子は御妃の御腹よりお生まれになられた。

次に、八百玉櫛姫の命 が生まれた。この姫御子は、向妻である 若敷狭依姫の命 の御腹よりお生まれになられた。

この姫御子は後に 積羽滝伴彦の命 の夫人となられた。

次に、玉島姫の命 が生まれた。この姫御子は、側禰女である 田依姫の命 の御腹よりお生まれになられた。

この姫御子は、陸奥の国の覇精高の上 亘理彦の命 の夫人となられ、その後、御名を改められ 亘理姫の命 と申し上げた。

次に、宮姫の命 が生まれた。この姫御子は、側禰女である 潮依姫の命 の御腹よりお生まれになられた。
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36,10
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ここで 天津御子の命 は、現しき青人草(この世の人々)の 年ごとの禍事、月ごとの禍事、日ごとの禍事 を取り除き、災厄を払うために、さらに改めて教えを伝えられた。

大きな国 には、臣の上たち(有力な家柄)の中で 五十年以上の年齢に達した者 を 座に置き(役職に就け)、その国の 防備の長(建) とされた。そして 外敵の侵入を防ぐため、臣の上の中でもさらに 健やかで力のある年配者 を 二人補佐として付け、国の 武器を扱う者たちを集めて防備の役職 とした。

国の中心部(中国) には、同じく 五十年以上の年齢に達した大御田族(稲作を司る者)の 八十歳の長老 を 座に置き、国主とした。

小さな国 には、七十歳の大御田族の長老 を 座に置き、里主とした。

村ごと には、六十歳の大御田族の長老 を 座に置き、刀自(村の長) とした。

葉枝村(小さな集落)には、五十歳の大御田族の長老 を 座に置き、村主(村の長) とした。

しかし 覇精高の収穫が減った家 は、この役職の中には含めなかった。

また、女性は清らかに仕えて神事を斎(いわ)け(神に仕えるべきである)とされた。

さらに、毎月の 遠津御祖の神事 において、広く、厚く、神をお祀りし、家ごとの幸福を祈るように との教えを伝えられた。

また、神事を行う清めの門のための木の葉(さの葉)を用意し、神事の翌日に湯を沸かし、その湯で身を清めるならば、長生きできるであろう と唱えられた。

そのため、現しき青人草(この世の人々)は皆これを喜び、歌い、歓び、太鼓を打ち鳴らし、楽しく平和な世を築いた。
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36,11
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ここで 天津御子の命 は 御齢(年齢)二百三歳 となり、長らく天の下(この世界)を治められた のち、ついに 家隠り(隠居) されることとなった。

そこで 天津日嗣の御子の命(次の天皇)に対して、天津御璽(あまつみしるし)の神宝 三つを 天津高御座(天皇の座)に 斎(いわ)いて安置 し、これを日嗣の御子に授け、さらに 国の繁栄と幸福のための教え を伝えられた。

そして、阿蘇の下山に大宮を立派に建て、自ら 大進田(おおしんでん)、小進田(こしんでん) を定め、そこにて 大宮隠り(引退) された。

これを受け、日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひだかひこなぎさたけうがやふきあえず)七十一代彦の命、その産まれた時の御名 天照国照彦百異日臼の命 は、天津御璽を受け継ぎ、天の下を治めることとなった。

先に結婚された姫たちの御名は:

妃:玉依姫の命(たまよりひめのみこと)

彼女は 六十七代の天津御子の命の御子 である 眞鳥颪(まとりおろし)の命の孫、さらに 佐久沢田守(さくさわたもり)の命、海津見岸待(うみつみきしまち)の命の娘 である 海守姫の命 に生まれた姫である。
向妻(第二夫人):竹姫の命(たけひめのみこと)

六十九代の天津御子の命の御子 である 高島の命の子 である。
御妾(側室):宮立姫の命(みやたちひめのみこと)

六十九代の天津御子の命の御子 である 片背原(かたそはら)の命の子 である。
別の御妾:襲之姫の命(おそのひめのみこと)

六十八代の天津御子の命の孫 である 櫛姫の命 の娘であり、甕槌笹竹の命の夫人(正妻)となり、子を産んだ。
この襲之姫の命は、生まれながらにして非常に強く、力が男をも超えていたため、襲之姫(強き姫)と名付けられた。
しかし 子を産むことがなかった。

一方で、御妾の宮立姫の命が懐妊し、生まれた御子の御名は田鶴姫の命(たづるひめのみこと)であった。
この田鶴姫の命は、表春楮緒玉(おもてはるかじょおたま)の命の夫人(正妻)となられた。
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36,12
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次に、向妻(第二夫人)である竹姫の命が懐妊され、胎内で大地の土と小さな土のように形を整え、さらに神々も加護し、成長を助けられた。

そこで、臼杵の大之浜(おおのはま)に産室(出産のための特別な場所)を建て、その中へお入りになり、御子が生まれる時となった。

その時、大海原(広い海)から山のような波が押し寄せ、五度も繰り返し激しく磯へ打ち寄せた。

そのため、この御子は「大海津彦五瀬の命(おおあまつひこいつせのみこと)」と名付けられた。

この御子は、天の御位(天皇の継承者)である日嗣の御子(皇子)であるため、正式な大御名は
「日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひだかひこなぎさたけうがやふきあえず)七十二代彦の命」と申す。

次に生まれたのが「天津熊野武の命(あまつくまのたけるのみこと)」であり、もう一つの御名を「稲氷の命(いなひののみこと)」と言う。

この天津熊野武の命は、同じ竹姫の命から生まれた兄弟のうち、兄にあたる御子である。
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36,13
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次に、御妃である玉依姫の命が懐妊され、大地の土と小さな土のように形を整えられ、さらに神々も加護し、成長を助けられた。

そこで、大分の黒之小浜(くろのこはま)に産室(出産のための特別な場所)を建て、その中へお入りになり、御子をお産みになろうとされた。

その時、朝日が雲を押しのけ、広がる原を美しく照らし出した。

この出来事を御名に託して「日高狭野の命(ひだかさやののみこと)」と名付けられた。

この御子は、天の御位(天皇の継承者)である日嗣の御子(皇子)であるため、正式な大御名は
「日高日子波限建鵜葺草葺不合(ひだかひこなぎさたけうがやふきあえず)七十三代彦の命」と申す。

また、後に秋津根の国(倭国)に大宮の柱を太く立て、天下を治めることになられた。

その時よりの御名は、
「天邇岐志国邇岐志天津日高日子波限建神大和磐余彦火々出見の命
(あめにぎしくににぎしあまつひこひだかひこなぎさたけかむやまといわれひこほほでみのみこと)」
と称えられるようになった。

次に、「三毛野入野の命(みけのいりののみこと)」が生まれた。

この御子は、御妾(側室)である御矢立姫の命(みやたてひめのみこと)の御腹からお生まれになった。

次に、「櫛垣姫の命(くしがきひめのみこと)」が生まれた。

この御子もまた、同じ御矢立姫の命のお腹から生まれた。

この櫛垣姫の命は、後に「太玉足柄の命(ふとだまたらしののみこと)」の夫人(妻)となられた。

以上、合わせて彦御子(皇子)四柱、姫御子(皇女)二柱が誕生された。

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36,14
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ここに、七十一代の天津御子の命(天皇)が天下を治められて六十八年が経った。

その夏の「みなつ(五月)」の日が十日余りも重なる頃、国々や島々がことごとく震え、大地震が発生した。

この大地震によって、山は崩れ、島も崩れ、大地は裂け、泥流が噴き出した。

また、その地震の始まりとともに、大風が吹き荒れ、砂を巻き上げ、稲の白い穂が実らなかった。

さらに翌年の春には、麦に蝗(イナゴ)が発生し、黒い雲が立ちこめることもなく、麦はすべて黒穂になってしまった。

このため、天津御子の命(天皇)は臣下たちとともに深く嘆き、憂慮された。

そして、国の大幣(神々への供物)を奉じ、大祓いの祭祀を行い、天津神(天の神々)と国津神(地の神々)に祈りを捧げた。

また、太占(ふとまに:鹿の骨を焼いて吉凶を占う儀式)による占いを行い、神の御意を問われた。
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36,15
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そこで、天津神(天の神々)と国津神(地の神々)は、大御言(神の託宣)を下されて、こう告げられた。

「急ぎ、速やかに、大御田族(農民たち)を救い、食物を得させなさい。そうすれば、国の災いも自然に消え去るであろう」

この神々の言葉を受け、天津御子の命(天皇)はこう申し上げた。

「これは私の罪である。どうすれば、その罪を贖(あがな)うことができるのか」

すると、天津神と国津神は答えてこう言われた。

「これは、我々の御心のうちにあること。ゆえに、皇子たちや臣下たちとともに国を巡り、大きな谷や小さな谷の山々に自生している食用の植物を探しなさい。

たとえば、食べられる葛の根、広く根を張る八広根(ヤマノイモ)、やくくさ根(薬草の根)、小黄櫨根(オウシュウの根)、萬年青根(オモトの根)、蕨根(ワラビの根)、百合根、数多く生えている蓮の実や根、桑の根、樺の根、野山に生えている瑞葉(食べられる若葉)を集めて乾燥させ、それらの根や葉を石臼で搗(つ)き、滋養のある汁を作り、食べさせなさい。

瑞葉(若葉)は蒸してから搗き、さらに搗いてから食べるようにしなさい。また、山の玉菜(山菜)、野の玉菜(野草)を摘んで食べるようにしなさい。これらの植物はすべて乾燥させて俵にして保存し、次の秋に備えて蓄えるようにしなさい。」

これを受け、天津御子の命(天皇)は、高津上(高位の臣下)たちとともに、八百千の臣下を集め、こう告げられた。

「現しき青人草(生きる民)は、我が君(統治すべき民)である。しかし、その君が今まさに飢えようとしている。だからこそ、これを見捨ててはならない。」

そこで、皆、国の国々、島の島々へと赴き、食物を山から掘り出して救うことにした。

諸臣は皆、「承知しました」と答えた。

そのため、鍛冶職人たちを千万人(非常に多く)集め、次のような道具を作らせた。

穂鋤(ほすき):収穫用の鋤
焼鋤(やきすき):焼いて作られた鋤
眞鍬(まくわ):本格的な鍬
穂鍬(ほくわ):穀物の収穫に用いる鍬
焼鍬(やきくわ):焼き鍬(焼入れされた鍬)
穂搶(ほのみ):穀物を刈る道具
焼搶(やきのみ):焼き入れされた刈り取り具
また、山を掘るための道具や、石を砕くための道具を数多く作らせた。

さらに、百斛船(ひゃっこくぶね:穀物などを大量に運べる大きな船)を多数建造させ、それらを海の入り江に停泊させた。

そしてついに、国を巡るために、豊日の速吸門(現在の豊予海峡付近)へと向かうことになった。

天津御子の命(天皇)は、高津上たちや八百の臣下たちとともに、正式な装いを整え、ここに出発された。

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36,16
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その時、天津御子の命(天皇)は、亀の甲羅のような形をした小さな船に乗り、鈎(釣り針)を垂らして釣りをしている老人を見つけた。

その老人は、岸辺の真苫(まとう:茂った草の生えた場所)に足を組んで座り、釣り糸を垂らしていた。

天津御子の命は、その老人に尋ねた。
「お前は何者か?」

すると、老人は答えた。
「私はこの国の覇精高(はせたか)の上(うえ:統治者)です。名は珍栄彦(うずえひこ)の上と申します。」

そこで、天津御子の命はさらに尋ねた。
「お前は海の道(航路)を知っているか?」

珍栄彦の上は答えた。
「知っております。」

さらに彼は続けて言った。
「私がこうしてお迎えに参ったのは、天津御子の命が、畏れ多くも豊道之原(とよみちのはら:豊かな国土)の現しき青人草(国民)を愛し、国を巡られるということが尊いからです。

また、私は六人の息子を持っております。この子たちもまた、海の道を熟知しておりますので、彼らを大伴の長(おおとものおさ:船団の指揮者)としてお仕えさせたいと存じます。」

「息子たちの名は、丹生麿(にゅうまろ)、赤麿(あかまろ)、白麿(しろまろ)、黒麿(くろまろ)、手之麿(てのまろ)、差麿(さしまろ)と申します。

彼らは私よりもさらに海の道に詳しく、航路を知り尽くしております。ですので、この六人に楫取(かじとり:船の操縦士)を務めさせ、お供させていただきたく存じます。」

この言葉を聞いた天津御子の命は、珍栄彦の上に「椎棹之珍彦(しいさおのうずひこ)」という御名(尊称)を与えた。

さらに、六人の息子たちにも、それぞれ新しい名を与えられた。

長男には「丹生棹彦(にゅうさおひこ)」
次男には「赤棹彦(あかさおひこ)」
三男には「白棹彦(しろさおひこ)」
四男には「黒棹彦(くろさおひこ)」
五男には「手之棹彦(てのさおひこ)」
六男には「差棹彦(ささおひこ)」
こうして、天津御子の命は、宮御子(皇子)や高津上たち(高位の臣下)、臣の上たち(その他の重臣)を率い、それぞれの親族も引き連れて船に乗り込んだ。

また、さまざまな道具や物資を大量に船に積み込んだ。

そして、国を巡る上たち(国を治める者たち)を、それぞれの稜威(みいつ:威光、権威)に応じて役割を分け、道を切り開いて進まれた。
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36,17
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その時、七十一代の天津御子の命(天皇)は、以下の臣下たちを召し集めた。

表春勝緒玉(おもてはるかつおたま)の命
息長於賀玉(おきながおがたま)の命
鳴海瀬之下(なるみせのした)の命
御年栄押櫃(みとしさかえおしひつ)の命
明玉上倉(あけたまうえくら)の命
八玉速海(やたまはやみ)の命
棚機眞床(たなばたまとこ)の命
久那斗清之男(くなときよのお)の命
広鉾若熊(ひろほこわかくま)の命
枳値可美眞見(きちかみまみ)の命
明玉白楯彦(あけたましろたてひこ)の命
これらの臣下たちが、天津御子の命の船の楫(かじ)を取り、丹生棹彦(にゅうさおひこ)がその長(おさ)として迎え入れた。

船は、速門(はやのと:急流のある海峡)を抜けて、北の海原を進み、越(こし)の国の新川(にいかわ)の門(港)に停泊された。

その時、越の国の覇精高の上(はせたかのうえ)、柿崎彦(かきざきひこ)の命と柿崎姫(かきざきひめ)の命は、藁殻(わらがら)の宮を建て、天津御子の命を迎え饗応(もてなし)した。

また、蝦夷(えみし)の族長である以下の者たちも、天津御子の命を迎えた。

蝦夷建甕槌手長男(えみしだてみかづちてながお)の命
陸奥建久那斗朝水(むつだてくなとあさみず)の命
越建速日神奈井(こしだてはやひかみない)の命
双子之洲建手置天津棚雲(ふたごのすだてたなおきあまつたなくも)の命
そして、国の主である者たち、里子(さとこ)、刀自(とじ)、村主(むらぬし)たちを召し集め、国の穂倉(ほくら)、郡の穂倉、里の穂倉をすべて開き、国の民に食料として分け与えた。

さらに、山野においても、それぞれの場所で必要なものを採取するよう指示を出し、臣下たちと共に山で稲を刈り取り、臼で搗(つ)き、水でさらし、濾(こ)し、土を取り除き、秋の実りを選び、伊勢の穀物を選び、それぞれの処理方法に従って調理し、食料を確保するよう手伝いを命じた。

天津御子の命は、こうした訓令を神々に祈りながら行い、蝦夷の地を越えて、魚を獲る方法を詳細に指導し、その取り決めを定めた。

その後、天津御子の命は、陸奥(むつ)の黒川(くろかわ)の宮へ帰還された。

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36,18
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七十代の天津御子の命(天皇)の二男である次の宮御子、高見香具山(たかみかぐやま)の命、またの御名を高倉下(たかくらじ)の命は、次の臣たちを召し集めた。

中臣道之足男(なかとみみちのたらしお)の命
天国戸渡(あまくにとわたり)の命
日別太刀神(ひわけたちがみ)の命
御鉾速襲(みほこはやそ)の命
明玉倉玉(あけたまくらたま)の命
稲置沢戸玉(いなぎさわとたま)の命
勝海寄合(かつみよりあい)の命
御鉾海乃辺(みほこうみのべ)の命
白羽藻乘(しらはもより)の命
羽槌船持(はづちふなもち)の命
これらの上たち(重臣)が乗る船の楫(かじ)を取る役として、赤棹彦(あかさおひこ)が長(おさ)となり、迎えに出た。

船は无邪津海(むさつみ)の余綾(よあや)の水門(港)に停泊した。

そこに、国の覇精高の上(はせたかのうえ)、足柄彦(あしがらひこ)の命と足柄姫(あしがらひめ)の命が、八つの広間を持つ室屋(むろや)を建て、清めた門代(かどしろ)を設けて、天津御子の命を迎え、饗応(もてなし)を行った。

さらに、无邪津海建(むさつみだて)、言代雲雀男(ことしろひばりお)の命、野陸建(のくがだて)、萱窓市高主(かやまどいちたかぬし)の命、常陸建(ひたちだて)、足羽伴輪(あしわともわ)の命、そして国主、里主、刀自(とじ)、村主(むらぬし)たちを召し集め、然るべき訓令を伝え、天津御子の命に従い、御親(みおや:主君)と共に従っていった。
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36,19
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七十代の天津御子(天皇)の弟であり、第三の宮御子である宇麻志内(うましうち)の命、またの御名を大久米(おおくめ)の命は、次の臣たちを召し集めた。

能登部水門足(のとべみなとあし)の命
斎部棚樋岸(いんべたなひぎし)の命
竜田山田(たつたやまだ)の命
天懸豊足(あまかけとよあし)の命
蘇我部山主(そがべやまぬし)の命
明玉塩凝彦(あけたましおこりひこ)の命
米杵高道別(よねきたかみちわけ)の命
高淤迦美千振(たかおかみちぶり)の命
言解檜之隈(ことときひのくま)の命
武市霞別(たけいちかすみわけ)の命
磐柝栄矢(いわたくさかえや)の命
これらの重臣が乗る船の楫(かじ)を取り、白棹彦(しらさおひこ)が長(おさ)として迎えに出た。

船は遠津海(とおつうみ)の新居(にい)の水門(みなと)に到着し、迎え入れた。

そこで、国の覇精高の上(はせたかのうえ)、新玉彦(にいたまひこ)の命、新玉姫(にいたまひめ)の命が迎え、天津御子の命を斎き(神聖な場として迎え)、もてなした。

また、次の国の建(くにたけ:地方の統治者)たちを召し集めた。

伊勢津の国建(いせつのくにたけ)、羽引斧足彦(はびきおのあしひこ)の命
淡海の国建(あわうみのくにたけ)、香具山明(かぐやまあきら)の命
遠津海の国建(とおつうみのくにたけ)、磐坂鳥田(いわさかとりた)の命
狭依科の国建(さよりしなのくにたけ)、狭霧天津鳥飼(さぎりあまつとりかい)の命
さらに、国主、里主、刀自(とじ)、村主(むらぬし)を召し集め、天津御子の命からの教えを伝え、それぞれに訓示した。

その後、天津御子の命自らも、彼らと共に従っていった。
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36,20
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七十一代の天津御子(天皇)の第三の宮御子である天津熊野武(あまつくまのたけ)の命、またの御名を稲氷(いなごおり)の命は、次の臣たちを召し集めた。

太玉七尾谷(たまふとしちびたに)の命
下春蟹津見(しもはるかにつみ)の命
金山夕刀自(かなやまゆうとじ)の命
国懸矢取男(くにかけやとりお)の命
積羽熊主(つみはくまぬし)の命
羽山玉鳥彦(はやまたまとりひこ)の命
宇麻志若山柝(うましわかやまたく)の命
速玉山田(はやたまやまだ)の命
麦数之緒(むぎかずのお)の命
経津串掛(ふつくしかけ)の命
飽咋棹木(あくくいさおき)の命
久那斗種村(くなとたねむら)の命
萱根天瀧(かやねあまたき)の命
高淤迦美武市(たかおかみたけいち)の命
雷越棚彦(いかずちこしたなひこ)の命
これらの重臣が乗る船の楫(かじ)を取り、黒棹彦(くろさおひこ)が長(おさ)として迎えに出た。

船は白日(しらひ)の岡田の水門(みなと)に到着し、迎え入れた。

そこで、国の覇精高の上(はせたかのうえ)、早良津彦(さわらつひこ)の命、早良津姫(さわらつひめ)の命が仮の宮を建て、天津御子の命を斎き(神聖な場として迎え)、もてなした。

また、次の国の建(くにたけ:地方の統治者)たちを召し集めた。

奇日(くしひ)の国建(くにたけ)、活玉鳥守(いくたまとりもり)の命
豊日(とよひ)の国建、大雷種耳(おおいかづちたねみみ)の命
建日(たけひ)の国建、村雲蓋持(むらくもふたもち)の命
速日(はやひ)の国建、菅野滝田(すがのたきた)の命
これらの四柱の上たちは、宮のそばに仕え、勤労していた。

また、次の国の建たちを召し集めた。

白日(しらひ)の国建、活津高根別(いくつたかねわけ)の命
狭手依(さでより)の島建、剣金知(つるぎかねち)の命
一箇柱(ひとつばしら)の島建、御年葦焚(みとしあしたき)の命
さらに、国主、里主、刀自(とじ)、村主(むらぬし)を召し集め、天津御子の命からの教えを伝え、それぞれに訓示した。

その後、天津御子の命自らも、彼らと共に従っていった。

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36,21
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七十一代の天津御子(天皇)の五男の宮御子である三毛野入野(みけぬのいりの)の命は、次の臣たちを召し集めた。

児屋田之土(こやたのつち)の命
斎部綾柄(いみべあやがら)の命
思金天之村楯(おもいかねあめのむらたて)の命
山彦十握男(やまびことつかお)の命
丹緒津若糸滝(におつわかいとたき)の命
言代昼辺(ことしろひるべ)の命
大屋磐室(おおやいわむろ)の命
沖疎瀬々之上(おきそせせのうえ)の命
塩土隼(しおつちはやぶさ)の命
赤土眞楯(あかつちまたて)の命
甕槌幸彦(みかつちさきひこ)の命
剣八重太刀(つるぎやえたち)の命
積羽曽呂鷲(つみはそろわし)の命
これらの重臣が乗る船の楫(かじ)を取り、手之棹彦(てのさおひこ)が長(おさ)として迎えに出た。

船は愛媛(えひめ)の宇摩川(うまがわ)の水門(みなと)に到着し、迎え入れた。

そこで、国の覇精高の上(はせたかのうえ)、脇彦(わきひこ)の命、脇姫(わきひめ)の命が、自らの家の外に朱塗りの門を建て、誠意を尽くして迎え入れた。

また、次の国の建(くにたけ:地方の統治者)たちを召し集めた。

愛媛(えひめ)の国建、煩空形(わずらいそらかた)の命
大宜都(おおげつ)の国建、雲根矢作(くもねやつくり)の命
飯依(いひより)の国建、熊野押族耳(くまのおしやかみみ)の命
建依(たけより)の国建、丹羽足之男(にわあしのお)の命
また、国主、里主、刀自(とじ)、村主(むらぬし)を召し集め、天津御子の命からの教えを伝え、それぞれに訓示した。

その後、天津御子の命自らも、彼らと共に従っていった。
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36,22
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七十一代の天津御子(天皇)の次男である御子、海津彦五瀬(かいづひこいつせ)の命は、日嗣(ひつぎ)の御子、すなわち皇位を継ぐべき御子であるため、七十二代の天津御子(天皇)となる。

この御子は次の臣たちを召し集めた。

太玉砺波主(たまたまとなみぬし)の命
笹津狭猪原(ささつさのいはら)の命
天懸豊戸守(あまかかすとよとまもり)の命
燿火気取彦(ようかけとりひこ)の命
速玉玉之緒(はやたまたまのお)の命
御鉾峡山(みほこさやま)の命
山津見徒歩窪(やまつみかちくぼ)の命
大土笠丈(おおつちかさたけ)の命
事勝主別(ことかつぬしわけ)の命
別雷神眞武(わけいかづちのかみまさたけ)の命
大雷伏松(おおいかづちふしまつ)の命
経津貫(ふつぬき)の命
この上たち(重臣たち)が乗る船の楫(かじ)を取ったのは、椎棹之珍彦(しいさおのうずひこ)の命であり、吉備津根(きびつね)の高島の水門(みなと)に迎えつき、泊まった。

そこで、国の覇精高(はせたか)の上である津高彦(つたかひこ)の命と津高姫(つたかひめ)の命が、津高川の水の上に、高い薦(こも)を敷いた宮を建て、毎月の祭りのために祭場を整え、花菖蒲の草を飾って御饗(みあえ、もてなし)をした。

また、吉備津根の国建(くにたけ:地方の統治者)である萱野吉浦手(かやのよしうらて)の命、さらに国主(くにぬし)、里主(さとぬし)、村主(むらぬし)を召し集め、それぞれに教えを伝えた。

そして、秋津根(あきづね)と日下根(くさかね)の国建たちを召し寄せようとしたとき、覇精高の上が申し上げた。
「しばらくお待ちください。日下根の国建たちは敵に襲われ、殺されてしまったと皆が言っています。また、外津世人(とつよひと、外敵の兵士)がやって来て国を荒らしているとも聞いております。そこで、まず我が家族を遣わし、はっきりとした情報を探ってまいります。」

これに対して宮御子(五瀬の命)は答えた。
「お前の言葉は確かに理にかなっている。しかし、そうであるならば、私自身が外津世人(とつよひと)と国津人(くにつひと、国内の人々)の対立の真相を知りたい。ゆえに、今すぐに向かうことにしよう。」

そう言って、吉備津の政(まつりごと)を高津上(たかつかみ)と臣の上(おみのかみ)たちに委ね、四柱の上たちを共に船に乗せた。

速玉玉之緒の命
御鉾峡山の命
別雷神眞武の命
大雷伏松の命
椎棹之珍彦の命が船の帆を上げ、東へと進み、日下根(くさかね)の南門に到着したとき、大波が激しく、極めて早かった。
それゆえ、この地を浪速(なにわ)の国と呼ぶようになった。

そこからさらに川を遡り、河内(かわち)の草香(くさか)の白肩(しらかた)の川津(かわづ、川のほとり)に至った。
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36,23
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七十一代の天津御子(天皇)の四男である御子、日高狭野(ひだかさの)の命は、日嗣(ひつぎ)の御子、すなわち皇位を継ぐべき御子であるため、七十三代の天津御子(天皇)となる。

この御子に仕える宮御子(王子・家臣)として、次の者たちがいた。

当芸志美々(たぎしみみ)の命
中臣道之臣人(なかとみみちのおみのひと)の命
斎部大富(いんべのおおとみ)の命
弥都波若菱守(みつはわかひしもり)の命
速玉山田(はやたまやまだ)の命
水分畑彦(みくまりはたひこ)の命
甕槌百合猛(みかづちゆりたけ)の命
磐柝春蒔(いわたくはるまき)の命
手力国守(たちからくにもり)の命
雷洩(いかづちもれ)の命
山背柏(やましろかしわ)の命
これらの上たち(重臣たち)が乗る船の楫(かじ)を取ったのは、差棹彦(ささおひこ)の長であり、船は穴門(あなと)の多祁里(たけり)の大竹(おおたけ)の水門(港)に泊まった。

ここで、国の覇精高(はせたか)の上である阿菩彦(あぼひこ)と阿菩姫(あぼひめ)の命が、清らかな御門(みかど)を建て、天津御子の命を迎え祀った。

さらに、次の国建(くにたけ:地方の統治者)たちが迎えた。

穴門の国建(くにたけ):狭槌文屋彦(さづちふみやひこ)の命
丹波の国建(くにたけ):沫那芸浅茅(あわなぎあさじ)の命
出雲の国建(くにたけ):狭霧鳥飼(さぎりとりかい)の命
天之忍許呂(あめのおしころ)の島建(しまたけ):萱野眞手(かやのまて)の命
さらに、国主(くにぬし)、里主(さとぬし)、刀自(とじ)、村主(むらぬし)たちを召し、天津御子の命の教えを伝え、それに従わせた。

こうして、御親らも彼らと共に進んでいった。

ここで「上津文(うわつふみ)」三十六の綴りは完結する。

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37,1
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上津文 三十七の綴り

それから八年ほど前に、斯羅(しら)国の大船がやってきた。

その船には、

王主 ユグトブブル(王)
将軍 ケシビビヤム(将軍)
将軍 コウルトトウブ(将軍)
が乗っており、牟婁(むろ)の三木の水門(みなと)に船を停め、陸へ上がった。

彼らは秋津根建(あきつねたけ)の攘ら屋(やらや=交易所)に行き、腹這いになってひれ伏し、さまざまな珍しい品々を貢物として捧げながら、交易を願い出た。

斯羅国の使者たちはこう言った。
「奴(やつかれ=我々)の国は、今とても騒がしく不安定な状態にある。
ここ天津日(あまつひ=日の本、日本)の豊道之原(とよみちのはら)の千秋(ちあき)も長く、五百秋(いほあき)にも及ぶ繁栄を誇り、瑞穂(みずほ)の国として、人も多く、国も豊かで、まことに素晴らしい国である。
だからこそ、今後は毎年、大船や小船を遣わして貿易を行い、交易をお願いしたい。」

しかし、秋津根建(あきつねたけ)、久々木若武(くくきわかたけ)の命はこれを聞いて、
「これは偽りの仮面をかぶった企みである」と疑い、申し出を断った。

斯羅の使者たちは諦めず、今度は日下根建(くさかねたけ)に同じ申し出をした。

しかし、日下根建 雲根種伴(くもねたねとも)の命も、「これは信用ならぬことだ」と考え、申し出を断った。
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37,2
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斯羅(しら)国の王と将軍たちは話し合いを重ねた末に、国の覇精高(はせたか)の長である登美の長髄彦(とみのながすねひこ)の評判を耳にした。

「彼は人並み外れた強い精神を持つ人物だ」と聞いた彼らは、菟田(うだ)の国見岳(くにみだけ)へ向かい、直接登美の長髄彦と会見した。

斯羅国の王主ユグトブブルと、将軍ケシビビヤム、コウルトトウブはこう話しかけた。

「覇精高の長である汝よ、汝は世をどのように治め、何を楽しみとしておるのか?」

登美の長髄彦は答えた。
「私は天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)の教えに従って生き、世を治めることを楽しみとしている。

だが、それを楽しみとは言わぬものだ。

真に国を統べる者は、民の生活を異ならしめる。すなわち、家、衣服、食事を他の者とは異なるものとすることで、初めて楽しみを得られる。

これこそが普遍的な法則である。その地位に就かぬ限り、真の男(益良男=ますらお)の心得を持つことは難しい。

汝らよ、もしお前たちの考えが正しければ、それを取り入れるがどうか?」

斯羅国の王たちはさらに問いかけた。
「そなたの言うその心伝えとは、いったいどのようなものか?」

そしてこう続けた。
「汝は覇精高の長と名乗るが、それは何ゆえか?」

すると、登美の長髄彦はこう考えた。

「国津神の子孫であると言えば、軽んじられ辱めを受けるかもしれぬ。だから、私は天津神の御子、天照国照彦天火之明玉饒速日命(あまてるくにてるひこ あめのほのあかるたま にぎはやひのみこと)の裔(えい=子孫)である」と偽ろう。

さらに、伊勢の度会(わたらい)の神職たちが持つ再見手(ふたたびみるて)の記録によると、次のように記されている。

登美の長髄彦の遠祖は八十禍津日(やそまがつひ)の命の三代の子孫であり、禍津虚張(まがつうつはり)の神の二十一代の子孫である。

その時代、天津神の血を引く天皇(皇ら命)が第十六代の天津御子(天皇)として天下を治めていた頃、越の国(北陸地方)の亘理(わたり)にいた禍津亘理彦(まがつわたりひこ)の命が、多くの国に悪事を働いていた。

これを知った十六代の天津御子の命は、明津上(あかつかみ)の火燿玉主(ほのかがやくたまぬし)の命を派遣し、禍津亘理彦の命を討ち払った。

その後、禍津亘理彦の命の一族はこの秋津根(あきつね=日本)へと逃れ、山に隠れた。

それゆえ、その土地を名張(なばり)の国と呼ぶようになった。

そして登美の長髄彦は、その名張の国に続く長(おさ=族長)の裔(子孫)であるため、宇侘(うだ)の覇精高(はせたか)の長と呼ばれているのである。
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37,3
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ここに斯羅(しら)国の王主と将たちは驚き、こう言った。

「そなたが天津神(あまつかみ)の裔(えい=子孫)であるという証(しるし)はあるのか?」

すると登美の長髄彦(とみのながすねひこ)は、斑鳩(いかるが)の峯において、饒速日命(にぎはやひのみこと)の御魂代(みたましろ)を祀り、天之羽々弓矢(あめのはばゆみや)一つと、置靱(おきゆき=矢を納める靱)一つを盗み取り、それを斯羅の王主と将たちに見せた。

これを見た王主と将たちは、非常に畏れ敬い、長髄彦を拝み、こう申し上げた。

「これはまさしく汝のものであろう。

そなたは豊道之原(とよみちのはら=豊かな国)の大君であるというのに、何ゆえにこの地で困窮し、苦しんでおられるのか?」

そこで、長髄彦のために大きな屋敷を建て、秋津根(あきつね=日本)の人々が作る水津実(みづみ=水辺の作物)や陸津実(くがみ=陸の作物)をこの屋敷に奉らせた。

そして、それを彼の親族や家族に分け与え、この屋敷に仕える者として従わせるようにし、こう告げた。

「もしこの世において自分に背く者があれば、それを討ち滅ぼし、自らの意のままに治めるがよい。

そして、朝な夕な、食事と酒宴を楽しみ、美しい女たちを娶り、暮らしを豊かにすれば、これこそが世を生き抜く道である。」

さらに王主は、国を治める者(国建)がこれに異を唱え拒むようであれば、酒を振る舞い、酔わせた上で殺すがよいと命じた。
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37,4
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そこで登美の長髄彦(とみのながすねひこ)は、「承知した」と応えた。

「もし天津御子(あまつみこ=神武天皇)がこの申し出を拒み、軍を興した場合、いかにして防ぎ戦うつもりか?」

斯羅(しら)国の王主と将たちは答えた。

「もし汝(ながすねひこ)が我々に八千斛(やちこく=大量)の種津実(たねつもの=穀物)を贈るならば、それに報い、まず五十隻の大船に千人の軍兵を乗せて、そなたを守るために派遣しよう。」

これを聞いた長髄彦は、かつて自らが現人(あきひと=民衆)から奪った八千斛の種津実を集め、それを斯羅国の王主と将たちに贈った。

斯羅国の王主と将たちは、この八千斛の種津実をそれぞれの船に積み込み、約束通り国へ持ち帰った。

そして後日、斯羅国の王主は約束を果たし、五十隻の大船に千人の兵士を乗せ、三木の水門(みきのみなと)に派遣し、船を停泊させた。
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37,5
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そこで登美の長髄彦(とみのながすねひこ)は大いに喜び、自らの配下の者たちにこう命じた。

「これより我々は天津御子(あまつみこ=神武天皇)に仕える者であると唱えよ!」

しかし、それ以前に登美の長髄彦は国中に次のように布告していた。

「国主の長として、菟田(うだ)の兄猾(えうかし)、国主の長として磯城(しき)の兄磯城太郎(えしきたろう)、国主の長として国見の岳四郎(くにみのたけしろう)を任命する。これより国内のすべての者は彼らに仕えるように!」

こうして登美の長髄彦は高倉山に要塞(攘ら屋=やらや)を築き、そこに八十もの禍々しい霊力を集め、秋津根(あきつね=大和)の国内を自らの意のままに支配しようと謀った。そして、多くの呪術的な行為を行い、人々を惑わせる悪しき行いを重ねた。

また、国中の美しい娘たちを次々と捕らえ、己の楽しみとした。

こうして、血筋の定かでない者たちも、その女たちとの間に生まれた子を通じて皆「大伴(おおとも)」と名乗るようになり、次第に勢力を増していった。

しかし、国建(くにたけ=各地の支配者)が登美の長髄彦の様子を探ろうと訪ねてくると、彼は恐れて身を隠してしまった。
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37,6
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ここに斯羅人(しらひと)国の将(しょう)、コウルドトウブが登美彦(とみひこ)にこう言った。

「このまま国建(くにたけ)を放っておけば、お前は罪を問われ、ついには殺されることになるだろう。だから、早く国建を酒宴に招き、毒を使って殺してしまえ。」

登美彦は「承知した」と答え、秋津根(あきつね)の国建(くにたけ)である久々木若武(くくきわかたけ)の命を酒宴に招いた。

しかし、登美彦が企んだ禍事(まがごと=悪しき計略)に気づかぬまま、久々木若武の命は酒宴に出席した。そして、宴もたけなわとなった頃、彼は突如として口から黒い血を吐き、神々の世界へと旅立ってしまった(=毒によって命を落とした)。

その死を知った親族や家族は集まり、大いに悲しみ泣きながら、彼をある山に葬った。

このことから、その山は「忍(しのび)の御山」と呼ばれるようになった。

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37,7
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ここに、凶作の年により、現世に生きる青人草(あおひとくさ=民衆)が食べ物に困っているのを助けるために、天津御子(あまつみこ)の命は、日嗣(ひつぎ)の御子(皇位を継ぐ者)や宮御子たち、臣下の者たちと共に、国々を巡ることを決め、それぞれの地へと分かれて出発した。

そのことを聞き及んだ登美の長髓彦(とみのながすねひこ)は、あえて戦の備えをせずに、内心で策略を練り、斯羅人(しらひと)の王主(おうしゅ)、ユグトブブルにこのことを伝えた。

すると、王主はこう言った。

「それならば、私の軍勢を送り込み、徹底的に彼らを討ち滅ぼし、お前の国としてしまえ。そして、我が国の属国とするがよい。」

これを聞いた登美の長髓彦は、大いに喜び、直ちに斯羅人国の兵士たちに、自ら率いる禍ら(まがら=悪しき者)たちを加え、孔々舎衛坂(くくさえざか)の西の坂本に陣を敷いた。

その頃、大海津彦五瀬(おおしあつひこ・いつせ)の命は、このような謀略があるとは夢にも知らず、青雲の白肩の津(しらかたのつ)を出発し、孔々舎衛坂の坂本にある日下刀自(くさかとじ)の家に入ろうとされていた。

ところが、予想もしなかったことに、坂本の方角から突然、軍勢が現れ、降り注ぐ矢がまるで雨のように降りかかった。

五瀬の命は、速玉玉之緒(はやたまたまのお)の命、御鉾峡山(みほこさやま)の命、別雷神眞武(わけいかづちのかみまむ)の命、大雷伏松(おおいかづちふしまつ)の命と共に、命からがら逃げ延び、白肩の川の向こう岸へと渡ろうとされた。

すると、登美の長髓彦は、八十人の兵士を引き連れ、すぐさま彼らを追撃してきた。

五瀬の命たちは、「もはや逃げるすべもない」と悟り、川向こうに立って、登美の長髓彦に向かって叫んだ。

「戦を挑む者は誰か!」

すると、登美の長髓彦は答えた。

「我こそは、天照国照彦天津火之明饒速日(あまてらすくにてるひこあまつひのあきらかにぎはやひ)の命の裔(末裔)である。汝は天津神の御子と偽り、なぜ我が国に来て争いを起こそうとするのか。」

これを聞いた五瀬の命は、こう言われた。

「天津御子と称する者は非常に多い。汝が本当に天津神の裔であるならば、必ずやその証となる品があるはずだ。それを見せてもらいたい。」

ここで、長髓彦(ながすねひこ)は、天之羽々矢(あめのはばや)一つと、天之歩靱(あめのほゆぎ)一つを手に取り、それを天津神の神宝(しんぽう)として誇らしげに掲げた。

それを見届けた五瀬(いつせ)の命は、こう告げた。

「汝(なんじ)がこの神宝を持っていることこそが、天津神(あまつかみ)の裔(すえ)であるという確かな証拠である。これは、我が大御祖(おおみおや)の命が、秋津根(あきつね)の斑鳩(いかるが)の頂(いただき)に、火明(ほあかり)の命を祭る御魂代(みたましろ)として斎(いつ)きまつる、まさしく御印(みしるし)である。それならば、もしも汝が本当に天津神の裔であるならば、この天之羽々矢を突き返してみよ。真(まこと)であれば生きよ、偽りであれば消え去れ。」

こう言って、五瀬の命は天之羽々矢を突き返そうとした。

そのとき、長髓彦の長子(ちょうし)、長髓太郎(ながすねたろう)が前に進み出て、

「この矢を受けるのはこの私だ!」

と言いながら、糟毛馬(かすげうま)に鞍を掛け、全身に軍装をまとい、最前線へと突撃した。

すると、五瀬の命は、その天之羽々矢を左手に取り、大腰のひきめ(矢を射るための部位)を用いて、勢いよく突き返した。

矢は、高天原(たかまのはら)へと舞い上がり、猛スピードで降り注ぎ、長髓太郎の兜鉢(かぶとはち=兜の頭頂部)を突き破り、胸の中央を貫通し、そのまま真っ逆さまに落ちて命を落とした。

この出来事があったために、この地を「白肩(しらかた)」と呼ぶようになった。

これを見た長髓彦は激しく怒り、兵を率いて一斉に攻めかかり、五柱(いつはしら)の上(神々)を四方から取り囲み、撃ち伏せようとした。

しかし、五柱の上たちは、それぞれ腰に佩(は)いていた十握剣(とつかのつるぎ)を抜き、敵の目を狙い、まるで禍ら(まがら=邪悪な者)を弄ぶかのように次々と斬り捨てていった。

その最中、長髓彦が放った矢が五瀬の命の肱(ひじ)の髄(ずい=骨髄)を射抜いた。

しかし、五瀬の命は痛みをこらえ、気持ちを挫けさせることなく、なおも禍ら(まがら)たちを斬り伏せ、ついにその川に繋がれていた船へと飛び乗った。

棹(さお)を差して川を下り、そのまま浪速(なにわ)へと戻り、こう告げた。

「我は日の神の御子である。それゆえ、日に向かって戦うのは我が罪である。これよりは、南へと向かい巡り、日を背に負って戦おう。」

こう言い、鳥の海(とりのうみ=宮城県の鳥の海)へと至り、その傷ついた御手の血を洗われた。

この地が後に「茅渟の海(ちぬのうみ)」と呼ばれるようになったのは、この故事によるものである。

その後、さらに進み、名草戸畔(なくさとべ)の家に入り、しばしの間、憩われた。

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37,8
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ここで、速玉玉之緒(はやたまたまのお)の命は、牧場にいた背の高い馬を引き取り、裸馬(鞍なしの馬)にまたがって駆け出し、日高狭野(ひだかさの)の命が国を治めていた丹波(たんば)の多紀(たき)の宮へとたどり着いた。

「申し上げます!」と声を上げると同時に、馬から降り、そのまま息絶えて倒れた。そして、彼が乗っていた馬も、その場で力尽きて倒れてしまった。

そこで、水を汲んできて彼の顔に吹きかけ、無理やり口をこじ開けて流し込むと、ようやく息を吹き返し、揺らめくように動き始めた。

それを見た狭野の命は、彼の馳せ使い(使者)である速玉玉彦(はやたまたまひこ)の命に向かって、「これは一大事である!早く、早く!」と急ぎの命令を下した。

速玉玉彦の命は、その言葉を受け、ことの次第を詳細に報告した。

この報告を聞いた狭野の命は、ちょうど食事の最中であり、手にしていた秀瓮(ほむべ=神聖な食器)を取り落とし、驚きのあまり大きく息を呑んだ。

すぐさま、臣の上たちを集め、次のように告げた。

「この事態を、東の国に国を治めて巡っておられる御父、天津御子の命に伝えよ。また、国々に国を治めて巡っている天津宮御子たちにも、ことの次第を知らせよ。」

こうして、急ぎの使者を四方八方へと送り出した。

狭野の命自身も、牧場に行き、鞍もないまま裸馬にまたがって駆け出し、臣の上たちも同じように馬に乗り、大伴(軍団)を率いることもなく、ただひたすら駆け急いだ。
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37,9
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あるとき、五瀬の命は名草戸自(なぐさとべ)の家に入られ、そこで矢傷を治療するために薬を用いた。そのおかげで、傷も次第に回復し、快方へ向かっていた。

ある夜、夕餉の膳が整えられ、五瀬の命は御酒を勧められた。酒を召し上がると、心地よく酔い、深い眠りに落ちた。臣の上たちは、五瀬の命が寝静まったのを確認すると、そのまま宿直をしながら警護していた。

ところが、名草戸自はこれを窺い見ていた。彼はすでに長髓彦(ながすねひこ)に通じており、五瀬の命を討つ機会を狙っていた。そして、今が好機と考え、親族や仲間の者たちを多く集め、屋敷を取り囲んだ。

すると、その物音が五瀬の命の耳に届き、彼は驚いて目を覚まし、すぐに飛び起きた。しかし、あたりはすでに灯火が消えていて、何も見えない。ただ、剣を交える音が響き渡るのみだった。

五瀬の命は身構えたが、その時、雨が激しく降り始め、大空はさらに暗く覆われた。「このままでは戦うこともままならない」と躊躇しているうちに、やがて雨が上がり、風が吹き抜け、暁の光が僅かに差し込んできた。

その瞬間、五瀬の命と四柱の臣の上たちは、剣を固く握りしめ、「なぜ我に仇なすのか!」と声を上げた。すると、敵は「これは登美彦の意志である」と叫び、襲撃してきた者たちは、武器を振りかざしながら、さらに勢いを増して攻め寄せた。

五柱の上たちは、「もはや身を守るすべはない」と判断し、剣を抜き、応戦した。目にも留まらぬ速さで次々と敵を斬り伏せ、名草戸自をその場から追い払った。しかし、激しい戦いの中で、彼らもまた深手を負った。

戦闘が終わると、皆が傷を負い、特に別雷神眞武(わけいかづちのかみ)の命は、肩から背中にかけて大きな刀傷を受けた。その痛みに耐えきれず、ついに彼は「神隠れの門出だ」と叫ぶと、襲いかかる敵を両脇で押さえつけ、一人の敵を自らの顎で挟み込み、そのまま川の深瀬へと身を投じた。

その頃、丹波の地にいた日高狭野(ひだかさの)の命が、臣の上たちとともに馬を走らせ、この地に急行した。到着すると、五瀬の命と臣の上たちが血まみれになっているのを目の当たりにした。

狭野の命が「いったい何が起こったのか?」と尋ねると、五瀬の命はこれまでの経緯を語った。

しかし、その戦いによって、ようやく癒えていた矢傷が再び裂け、さらには新たに多くの傷を負ってしまったため、五瀬の命は耐え難い苦痛に襲われた。そして、剣を片手に取り、次のように叫んだ。

「なんということだ!卑しい者どもに傷を負わされ、その仇を討つことも叶わず、このまま命を落とすというのか!」

そう言い放つと、彼は最後の雄叫びを上げ、ついに神去り(死去)された。

その後、五瀬の命の御遺体は、紀の竈山(かまやま)に手厚く葬られた。

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37,10
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ここで、日高狭野の命はこの地に留まり、滞在していた。そこで、この地を「狭野の里」と呼ぶようになった。そして、仮の宮を建て、宮御子たちからの伝令を待つこととした。

それからしばらくすると、使者が次々とやってきた。皆、驚きの表情を浮かべながら、日下根に集まってきた。そして、天津御子の命は、陸奥の国から臣の上たちと共に出発し、伊勢津の多気の地に到着し、そこに滞在していた。

また、七十代の次男の宮御子である高倉下の命は、无邪津海(むやつみ)から秋津根へと戻り、日下の狭野の命のもとへ向かうため、臣の上たちを率いて帰還した。

大久米の命もまた、伊勢津の多気の宮に参上すると、天津御子の命は彼に向かって告げた。

「汝はここに留まるのがよい。ここでは、後々、臣の上たちと共に禍を避け、逃れられる備えとするのがふさわしい。そこで、お前に従う臣の上たちを率いて狭野の命と協力し、敵を追い払え。」

この言葉を受け、大久米の命は、狭野の屯(たむろ)へと臣の上たちと共に急行した。

一方、稲飯の命は、臣の上たちを率い、八櫂船(やかいぶね)に乗せ、狭手依(さでより)の地を経由し、日下根の雄の水門に到着した。そして、そこから狭野の屯に入った。

また、三毛野入野の命は、建依(たけより)の地を経由し、頓船(とねぶね)に臣の上たちと共に乗り、雄の水門に到着し、そこから狭野へと上った。
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37,11
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ここで、天津宮御子の四柱の上たちは、それぞれ八十の臣の上たちを率いて狭野の屯(たむろ)に集まり、軍勢を整えた。そして、熊野の地から出発しようとした時、次の者たちが参上した。

那賀刀自(なかのとじ)、矢弓四郎(やゆみしろう)、伊都刀自(いとのとじ)、琴五郎(ことごろう)、海部刀自(あまべのとじ)、勝之男(かつのお)、村主(すぐり)、河内郎(かわちのろう)、足麿(あしまろ)、若八郎(わかやろう)、松四木郎(まつしぎろう)、弟六郎(おとろくろう)らが、百余名の現人(うつしきあおひとくさ=生きている人々)を率いてやってきて申し上げた。

「長髓彦と斯羅人(しらひと)の禍(まが)を退ける戦いとなるならば、私たちはこの土地の道に詳しい者たちです。そこで、軍勢の先導を務め、先立ってお迎え申し上げます。」

そこで彼らは軍の先頭に立ち、道を進んでいった。そして、熊野の邑(むら)に出たところ、高野の地には敵の軍勢が数多く集まっていた。

ここで、千筋の矢を放つと、敵も矢を放って応戦してきた。そこで、さらに近づいて討ち取ろうと進軍していったが、その時、大きな黒い雲のような煙が立ち上り、風に乗って四方へと吹き散った。

これは斯羅人が仕掛けた毒煙であった。その煙に軍勢の者たちが巻き込まれると、次々に衰弱していった。結果として、進軍することができず、皆撤退を余儀なくされた。

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37,12
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ここで日高狭野の命は、天津神に祈りを捧げたところ、その夜の夢に、誰とも知れぬ者が現れ、次のように教えた。

「天之香具山の頂の埴(はに=粘土)を取り、それで天津平瓮(あまつひらか=神祭りのための平たい土器)を八十枚作り、それに酒を満たし、また厳瓮(いわか=神聖な供物を入れる土器)を作って中に供物を満たして、天津神と国津神を祀るのだ。昼は八日、夜は七日、厳かに呪詛を行い、祈りを捧げれば、敵を倒す術(ことわざ)が自然と成り立つだろう。」

このような言葉を夢の中で聞き、目が覚めた。

そこで、日高狭野の命は、宮御子たちにこの夢の内容を語り、神事を行うべきであると告げた。

その時、宇陀の国主・弟猾(おとたわけ)が参上し、日高狭野の命に申し上げた。

「長髓彦(ながすねひこ)は天津御子(あまつみこ)を名乗る偽者であり、荒々しく猛り狂って国の人々を殺めています。私の兄は彼に媚びて悪事を働き、国内を騒がせています。私が何度も諫めても、聞く耳を持ちませんでした。そこで、このことを申し上げるために参りました。また、磯城(しき)の国主も八十の賊(まがいもの)を集め、天津御子の命に抗って陰謀を巡らせています。さらに、高市(たけち)の国主である赤銅五郎(あかがねごろう)も八十の賊を集め、悪事を働いています。彼らは天津御子たちを殺し、長髓彦を天津御子としようと考えているのです。今、天津御子の命が香具山の埴を取りに使者を出したと知られれば、道中で殺されてしまうでしょう。」

日高狭野の命は尋ねた。

「その埴を取りに行くのに、良い策があるか?」

弟猾は答えた。

「策はございます。」

その場に居合わせた珍彦(うづひこ)も言った。

「敵の目を欺く策が必要です。」

日高狭野の命は言葉を続けた。

「長髓彦は斯羅人(しらひと=海外勢力)と手を組んでいる。だからこそ、多くの人々を殺めているのだ。彼は国の仇であり、また兄の仇でもある。」

そして、次のように涙ながらに歌を詠んだ。

瑞々しく育った久米の子たちよ
垣の下に茂る粟の畑よ
臭き韮が千々に生えようとも
その茎を根元から刈り取って
討ち果たさずにはおくまい

珍彦と弟猾はこの言葉を聞き、その思いを汲み取った。そして、すぐに策を立てた。

珍彦は破れた衣をまとい、破れ笠をかぶり、柴(薪)を背負う貧しい男を装った。弟倉下(おとくらした)は、破れた衣をまとい、破れた布を被り、柴を背負う貧しい女に扮した。そして、道をのろのろと歩いた。

そこへ敵の者たちが現れ、進む道を塞いだ。彼らは珍彦と弟倉下をじろじろと見て、笑いながら言った。

「ああ、醜いものよ。なんと惨めな柴を背負う夫婦ではないか。」

そう言って、敵は二人を侮り、道を開けた。

こうして二人は香具山の山に登り、埴を取り、無事に戻った。

日高狭野の命は大いに喜び、この埴を使って祭器を作った。

まず、平瓮(ひらか)を八十枚、天之手抉(あまつたくじり)を八十枚、厳瓮(いわか)を八十個作った。日高狭野の命は、自らこれらを乾燥させ、岩窯(いわがま)で焼き固めた。窯の石を切り出し、松の薪をくべて焼き固めた。

そして、丹生川上(にうかわかみ)のむれか野にて、天津大神(あまつおおかみ)と国津大神(くにつおおかみ)を斎(いつ)き祀り、神事を執り行った。

さらに、岩窯に天之手抉(あまつたくじり)を置き、餅米を炊いて飴を作り、供えた。

その神事は神の意に適い、神々は大いに勇み喜ばれた。
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37,13
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この神事を終えた後、日高狭野の命は誓いを立て、次のように述べられた。

「この厳瓮(いわか)を今、この川に流そう。そして、もし川の魚たちがことごとくこの御酒に酔い、木の葉が水面を浮き流れるようにたゆたうならば、私の病も、またすべての人々の病も、忽ちに癒え、国に祟る禍(まが)も鎮まり、国が安らかになるであろう。」

そう告げると、すぐに厳瓮を丹生川に放ち流された。

すると、しばらくの間を置いて、大きな魚や小さな魚が次々と水面に浮かび上がり、口を開けてあえぐようになった。

この光景を目の当たりにした珍彦の命は、丹生山に生えている五百本の真榊(まさかき)を抜き取り、それをこの祭りの供え物として奉った。
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37,14
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ここで宮御子である高倉下の命は、剣を持って狭野の命のもとへ向かい、病に伏せる狭野の命の枕元に立ち、その剣を奉った。そして、その剣を狭野の命の枕元の高い位置に供えると、狭野の命は起き上がり、病が癒えて次のように言った。

「私は長い間、深い眠りについていたのか。」

そう語ると、御軍の人々に向かって声をかけたところ、皆が一斉に目を覚ました。

狭野の命は、高倉下の命がどのようにしてこの剣を手に入れたのかを問いかけた。すると、高倉下の命は答えて言った。

「私は夢の中で、高天原の大宮に参上しました。そこには天照大御神と高御産巣日の大神の二柱の神がいらっしゃり、彼らが建甕槌(たけみかづち)の命を召され、こう告げられました。

『豊道之原の中津国はひどく乱れている。我が御子たちは悩み苦しんでいる。内の豊道之原の国は、もともと汝が言向けた国なのだから、そこへ降りて言向けを行い、平定せよ。』

すると、建甕槌の命は答えて言いました。

『もし私が天から降りることができないのであれば、この高天原より言向けを行い、また、その真証(まことのしるし)として、佐士布都(さじふつ)の神と呼ばれる剣を地に送り届けましょう。』

そう言うと、その剣は高倉下の命の屋根を突き破って落ちてきたのです。そして、さらに建甕槌の命は私に向かい、次のように言いました。

『汝、阿佐米余久(あさめよく)、この剣を取り持ちて、今まさに臥せっている狭野の命に授け、与えよ。』

そこで私は夢のお告げに従い、早朝に倉の中を確かめてみると、本当に大床に剣が逆さまに立っていました。それゆえ、この剣を持ってきたのです。」

高倉下の命はこう説明した。
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37,15
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ここで、高御産巣日の大神が御言葉をもって告げられた。

「天津神の御子たちよ、これより先の奥へと進んではならない。そこには、千速(ちはや)に振るう荒ぶる者たちがいて、その様は五月蠅(さばえ)の如く騒がしい。ゆえに、今、八咫烏(やたがらす)を遣わそう。その八咫烏が先に進んだ後についていきなさい。」

このように告げられた。
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37,16
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ここで、天津御子たちは皆で雄叫びをあげ、再び高野に集結する敵に向かって進軍した。すると、山の峡(かい)から黒煙が空に立ち昇り、広がった。

そこで、大久米の命は、天津大神より授かった佐士布都(さじふつ)の剣を抜き、左右に大きく打ち振った。その刃の上からは、強い真風(まかぜ)が勢いよく吹き荒れ、敵が集まる砦へと一気に吹き抜けた。すると、敵が仕掛けていた毒煙が、その風に煽られ、逆風となって自らの陣営に吹き返り、敵軍は混乱し、壊滅した。

これにより、この地を「えけ」と呼ぶようになった。
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37,17
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ここで、第七十一代の天津御子の命は、伊勢津の多気の門から湯の水門へと進み、陸路を行き、仮の宮を建てられた。そして、宮御子や日嗣御子たちを集めたその場所を「日高」と名付けた。

ここで、天津御子の命は、御子たちや臣下たちに指示を出された。

まず、日嗣の御子である日高狭野の命には、大久米の命、手研耳の命、中臣日之臣人の命、斎部大富人の命、弥都波若菱守の命、丹生津帆安の命、速玉山田の命、底土照田の命、水分久止彦の命、甕槌百合武の命、岩柝春辺の命、手力国守の命、雷漏志の命、山背柏の命、根柝百田の命、能登部御弓の命、斎部手之樫の命、竜田矢俣の命、懸豊足の命、曽我部山野の命、明玉塩凝の命、高淤迦美道振の命、事解熊の命、武市霞別の命、磐柝坂屋の命の二十六柱の上たちを率いて、宇陀の国見に向かい、禍を起こし、祟りをなし、現人を害する長髓彦とその手下たちを討ち果たし、すべてを打ち滅ぼせと命じられた。

また、先代の天津御子の命の宮御子である高倉下の命、そして今の御子である稲飯の命、三毛野入野の命、中臣道足の命、天国戸渡の命、日別太刀柄の命、御鉾速襲の命、白羽鳥羽の命、羽槌船持の命、下春蟹津見の命、金山七尾谷の命、国懸八鳥の命、積羽熊主の命、速玉鳥彦の命、宇麻志若山の命、経津櫛掛の命、児屋種土の命、斎部綾柄の命、思金村楯の命、言代昼辺の命、大屋岩室の命、塩椎矢房の命、剣八重田の命の二十四柱の上たちには、牟婁の鬼山へ向かうよう命じられた。

その地には、外津世(異国)の毛物(獣)たちに似た鬼たちが、この大御国へと侵入し、千速(ちはや)に荒々しく祟りをなしている。これらの鬼たちは、三木山に屯している。故に、これらの鬼どもを一人残らず討ち滅ぼせ、と命じられた。

「もしもこれを成し遂げず、鬼どもが再び騒ぎを起こし、この地に侵入してきたならば、外津世へと追い返したとしても、天津国津神の大きな罪となる。よって、一匹たりとも取り逃がすことなく、すべてを討ち滅ぼせ。」

このように厳しく言い聞かされた。

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37,18
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ここに日高狭野の命は、大久米の命、臣の上たちとともに出発しようとし、それぞれが戦装束をまとった。そして、大伴の上たちには軍旗を持たせ、戦の局面ごとにそれを掲げさせた。また、敵と相対するごとに、法螺貝や銅鑼、太鼓、細鼓を打ち鳴らし、軍勢の進退の合図とした。そして敵の拠点ごとに押し戸を立て、戦勝の儀式を執り行った。

さらに、牧山にいる軍馬を引き連れようとしたところ、名草、日根、石川のあたりの現し人たちが数多くの健馬を率いて天津御子の命に捧げるために参上し、「我らもお供いたします」と申し出た。

ここに日高狭野の命は軍勢を整え、出陣した。そして花坂に差し掛かったとき、八咫烏が坂の木に舞い降り、「こちらへ、こちらへ」と囀った。そこで、その八咫烏の導く方向に従い進んでいくと、吉野川の川辺にたどり着いた。そこでは人々が網代を設け、川魚を獲っていた。そのうちの一人が、「この川魚を軍の出陣の祝いとしてお捧げします」と申し出た。

そこで日高狭野の命は「お前は何者だ」と問いかけた。すると、その者は「私は国津神・贄持の命の子で、名を賀名生五郎と申します」と答えた。

日高狭野の命はさらに、「お前はこの地の国主、里主、村主らの心の内を知っているか」と尋ねた。賀名生五郎は「よく知っております」と答えた。

「では、我らの行く道を先導し、迎え入れよ」と命じた。

すると賀名生五郎は、「天津御子にお仕えし、国の吉凶や斯羅人(異国の者)の動向を明らかにするために、ここ河原まで参りました」と申し上げた。

そこで日高狭野の命は、「それならば、先導し、迎えに立て」と命じた。

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37,19
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ここに同じ時に、高倉下の命、稲飯の命、三毛野入野の命、そして臣の上たちは、皆戦装束を整え、それぞれの備えを固めていた。やがて進軍すると、現しき青人草(民衆)も皆、御軍の伴人となり、共に進んだ。そして山へと進むと、斯羅人たちは千々萬とも言えるほどの大軍勢で、山野の至る所に陣取り、集結していた。彼らは矢を放ち、煙を立ち昇らせ、威嚇するように大声で叫び、嘯いた。

ここに稲飯の命はその様子を見て、歌を詠まれた。

「栗栖の野を見渡せば、夷(あちらの民)の軍勢が千々に群れ、 室戸の山々に立て籠もり、戦の準備をしている。 けれども、縮こまって怯える姿が見える。 我らが攻めて討ち果たすのは、もはや必然。 ここで討ち取らねばならぬ、討ち取らねばならぬ」

ここに御軍が進軍すると、山峡の方から黒煙が空へと立ち昇った。そこで高倉下の命は、天より授かった神剣を抜き、振りかざされた。その刃から巻き起こる神風が、斯羅人たちの陣地へと吹きつけると、彼ら自身が焚いた毒煙が逆風に煽られ、自らの陣営を呑み込み、斯羅人たちは次々に倒れていった。

ここで高倉下の命は、「今こそ時なり」と言い、皆もそれぞれ得物を持ち、斯羅人たちを次々に射殺し、打ち倒していった。その結果、斯羅人の軍勢は数多くの者が鬼山へと逃げ込んだ。そこで御軍は追撃をかけ、さらに彼らを討ち果たそうとした。

ここに高倉下の命は、さらに歌を詠まれた。

「蝦夷の民よ、よそ者たちよ、 そなたらは人とは言うものの、 戦う術も知らぬ者ばかり、 ただ縮こまるばかりではないか」

斯羅人たちは鬼山に耐えきれず、さらに三木浦へと逃げ延びた。ここに丹敷刀自(たじきとじ)と常石麿(とこいしまろ)が斯羅人たちを助け、天津御子に逆らった。そこで丹敷刀自は、斯羅人たちの手引きをした者たちを次々と討ち果たされた。また斯羅人の残党は、海や山の中へと隠れ、震え怯えていた。

ここに稲飯の命は、さらに歌を詠まれた。

「小さな螺(にし)が、這い回るように、 波間に隠れ、じっと息を潜める。 だが、我らは討ち取らねばならぬ、 討ち取らねばならぬ」

ここに、大雷眞島津の命、別雷神眞の命、笹津佐原の命、速玉玉之緒の命、太玉若道の命、児屋建泉の命の六柱は、五瀬の命の仇である長髓彦を討つべく、南へと軍を進め、曽根の地に向かって進軍された。

しかし、丹敷浦や鬼山に隠れていた斯羅人たちは、御軍の動きを察し、各所から現れて、六柱の上たちを包囲し、十重二十重にも囲い込んでしまった。そして無数の矢を降らせるように放った。

六柱の上たちは退くこともできず、それぞれ佩いた十握剣を抜き、襲い来る矢の雨を潜り抜け、敵へと斬り込んでいった。近接戦に持ち込み、次々と敵を斬り伏せると、大きな屍の山が築かれた。そして敵の首を一つまた一つと刎ね、斯羅人たちを震え上がらせた。

この光景を目にした稲飯の命、三毛野入野の命、そして臣の上たちは、さらに軍勢を増し、その場へと駆けつけた。そして彼らもまた武器を振るい、斯羅人たちと激しく戦った。

この戦いにおいて、御軍の戦士二十余名が命を落とした。しかし、それ以上に斯羅人たちは壊滅的な損害を受け、戦に疲れ果てた者たちの屍は山のように積み重なった。そして、斯羅人の生き残りたちは皆、丹敷の端へと走り、隠れてしまった。
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37,20
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ここに稲飯の命、御毛野入野の命、下春蟹津見の命、太玉七尾谷の命、甕槌幸彦の命、剣八重太刀の命らは、曽根門に軍船を造り、海門より丹敷門へと進軍した。そして斯羅人の軍船五十隻を海上で迎え撃ち、壊滅させようと準備を整えた。

その時、斎部若道の命が、赤裸馬に鞭を入れ、駆けつけて天津宮御子に申し上げた。

「私も船を造り、共に海へと進軍し、斯羅人を討ち滅ぼしたいのです!」

ここに天津宮御子は答えられた。

「否、それはならぬ。我はあの五十隻の大船に対し、我が軍船六隻で戦い、一人たりとも残さず討ち取ろうと考えている。もしここで大船団を用いれば、我らも斯羅人も共に息絶えてしまうであろう。故に、汝は騒ぎ立てず、我らの戦を見守るがよい。」

しかし、斎部若道の命はなおも食い下がり、言った。

「御子よ、なぜこの私に情けないことを仰せになるのですか?私はこの戦に命を捧げる覚悟で願い出たのです!また、私を何者と思っておられるのですか?私は単なる臣ではありません。今や、大海津彦五瀬の命の身代わりとして、ここにいるのです。どうか許してください!」

そう言い、彼は自ら戦装束を整えた。

その後、日が経つことなく、船団の備えは整い、七隻の軍船が並び、三木浦と丹敷浦に停泊した。しかし、彼らがその船を遠くから見遣ると、五十隻の斯羅人の軍船は、一隻も残らず、昨夜のうちに海へと逃げ去っていた。

この報を地人(地元の者)より聞いた稲飯の命は、大いに嘆き、次のように言われた。

「我が遠き祖先は天津神であり、その御妹は海津神の御子である。それなのに、斯羅人どもは天津神の大御国に対して、災いや悪事を重ね、国の民を苦しめてきた。だからこそ、彼らを陸に追い詰め、皆討ち取らねばならなかったのに、なぜ海路を逃がしてしまったのか!速やかに疾風を起こし、奴らを戻さねばならぬ!」

そして、御軍の者たちに向かい、さらに命じられた。

「斯羅人の船が戻ってくれば、すぐさま討ち取り、皆殺しにせよ!我は海原を駆け巡り、彼らの船を導き戻してみせる!」

そう言い放つと、彼は佩いていた十握の剣を抜き、顔の前に掲げると、そのまま大海原へと跳び込み、海神(鋤持ちの神)となられた。

ここに御毛野入野の命は、その出来事を目の当たりにし、

「かくして、彼は鋤持ちの神となられたのだ。」

と言われた。

さらに、下春蟹津見の命、太玉七尾谷の命、甕槌幸彦の命、剣八重太刀の命、斎部若道の命ら五柱の上たちも、稲飯の命に続き、皆、大海へと身を投げ入れ、鋤持ちの神となられた。
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37,21
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ここに翌朝の暁、南西の風が激しく吹き、まるで山のような大波が起こり、人々の家を吹き倒すほどの勢いとなった。そのため、御軍船は沖に留まることができず、ついには大きな島の陰へと押し流され、風の後ろへと隠れた。

しばらくして朝が明ける頃、逃げ走った斯羅人の船五十隻が西北の風に吹かれ、沖へと漂い流れていく様子が見えた。その船の後方から、八尋(大きさを示す単位)の巨大な鰐七匹が、頭を低くして忍び寄り、船を襲ってきた。

ここに御軍船は、山のように盛り上がる大波を乗り越え、斯羅人の船へと飛び入り、敵兵を次々と討ち倒し、蹴り殺していった。しかし、その間に巨大な鰐たちは大きな口で次々と船底を噛み砕き、すべての斯羅人の船が浸水し始めた。斯羅人も御軍の兵も、皆が次々と溺れ始めた。

この時、御軍船の将軍である 能登部水門足の命、国懸矢取の命、宇麻志若山の命、沖疎瀬之上の命、甕槌幸彦の命、積羽若菱守の命、斎部櫛山の命 らは、それぞれの船の舳先に立ち、清らかな御幣を振りながら叫んだ。

「この海原で溺れるのならば、斯羅人どもをすべて捕えて海に叩き込め!我らに続いて波を鎮めよ!」

こう言い放つと、将軍たちは次々と海へ飛び込んでいった。

これを見た御軍の兵たちも、それに続き、皆が海へと身を投じた。

この時、数々の島々が現れ、将軍や御軍の兵たちは皆、その島々へと流れ着いた。そのため、誰一人として溺れ死ぬことはなかった。

すると、その島々が動き出し、磯辺へと流れ寄せてきた。将軍たちや御軍の兵士たちは皆、心を奮い立たせて、そのまま陸へと上がった。

そのため、この場所を 周参見(すさみ) と名付けた。

また、その島々をよく見てみると、それらはすべて巨大な鰐の背であった。

そこで、この周参見の地に、鋤持ちの神を斎き祀り、 「すさゐの大神」 として敬うこととした。

これにて、上津文三十七の綴りを完結する。

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38,1
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上津文 三十八の綴り
ここに天津日嗣の御子 日高狭野の命 は、八咫烏(やたがらす) の導きに従い、贄持の命 の子である 加名生五郎(かなふごろう) を先導として進まれた。

すると、尾のある人が 井戸の中から現れた。

日高狭野の命は、その者に向かって問いかけた。

「汝(おまえ)は誰であるのか?何を思って、我が進む道を遮るのか?」

その者は答えた。

「私は国津上(くにつかみ)です。名は 井氷鹿呂(いひかろ) と申します。」

ここで道を塞いだ理由を説明した。

「国の禍いをなす者を討ち払うために出立されたと聞きました。私もお役に立ちたいと思い、参上いたしました。」

日高狭野の命は、彼を先導として道を進むよう命じられた。

そして、その山に入っていかれると、また別の 尾のある人 が 岩の洞窟を分けるようにして現れた。

その者は、日嗣の御子である 日高狭野の命 の前に 畏(かしこ)み、伏し拝みながら申し上げた。

すると、日高狭野の命は問いかけた。

「汝(おまえ)は何者であるのか?」

その者は答えた。

「私は 磐排別(いわはいわけ)の命 の子、吉野六郎(よしのろくろう) と申します。」

日高狭野の命はさらに問うた。

「汝は、我が道を 先導するのか、それとも 後ろから道を守るのか?」

吉野六郎は答えた。

「私は 先立って道を導きます。」

ここに 八咫烏 が再び現れ、囀(さえず)りながら飛んでいった。
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38,2
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ここで 日高狭野の命 たちは道を進み、踏み入れたその先で、大きな熊が山から現れ、道を塞いだ。その熊は咆哮しながら、進もうとする御軍を妨げた。

これを見た 大久米の命 は、その熊を捕らえて言い放った。

「汝は畏れ多い神の化身なのか。なぜ天津神の道行きを遮るのか。速やかに山へ帰れ!」

こう言って熊を放ち逃がした。熊は大きな道を一町(約109メートル)ほど駆け去ったが、すぐに戻ってきて嘯(うそぶ)いた。そして再び去り、また戻ってくるという行動を何度も繰り返した。

これを見た 大久米の命 は、これは尋常ではないことだと考え、こう告げた。

「汝は、我が軍勢を立ち止まらせようとしているのか?」

そして、日嗣の御子 である 日高狭野の命 に告げた。

「私はこの熊の行く先を追って進みます。御軍は私の後に続いて進んでください。」

こうして、大久米の命は熊の後を追って道を進んだ。それに続いて、日高狭野の命も、軍勢も前進を開始した。

熊は何度も吠えながら空に向かって嘯き、叫び続けた。すると、熊は突然道をそれて、脇の大きな岩の上に駆け登り、咆哮した後、逆さまに跳び降りた。

その先には、長柄(ながえ)土蜘蛛猪村主(いのむらぬし) という者がいた。彼は天津御子の命たちが、斯羅人(しらひと)と戦い、禍を追い払うために進軍していることを知ると、これを妨げようと考えた。

そこで彼は、多くの禍らいの者たちを集めて、道を深く掘り、落とし穴を作った。さらに、その穴の上には、朽ちた木を並べ、その上に土を敷いて隠し、敵軍が気づかずに落ちるようにした。

しかし、その罠の存在を 天津御子の命たちは知ることができなかった。

ここで、先ほどの大熊が再び現れ、天津御子の命たちにその罠の存在を教えようとしたのである。

すると、大熊は大岩の上から、突然その陥し穴(落とし穴)の上に跳び降りた。その衝撃で、隠していた朽ち木がすべて崩れ落ち、穴の中にいた敵の軍勢が一気に巻き込まれた。

熊自身も穴に落ちたが、穴の中に潜んでいた敵の軍勢を次々と引き裂き、多くを殺した。

この出来事は、五瀬の命の神秘的な加護 によるものだと、人々は恐れ敬った。

そこで、人々はこの地を 「莵田の穿(うたのうがち)」 と名付けた。

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38,3
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ここで 日高狭野の命 は 中臣道之臣人の命 に尋ねた。

「直ちに軍を進めるべきか、それとも一旦休息を取るべきか?」

これに中臣道之臣人の命は答えた。

「まず、この地の状況を探るべきでしょう。」

日高狭野の命は、「それがよい」 と同意し、中臣道之臣人の命は使者として、事勝主別の命を遣わし、莵田の国主である兄猾(えうかし)、弟猾(おとうかし)を召すよう命じた。

しかし、兄猾は応じず、弟猾のみが参上した。

ここで 中臣道之臣人の命は弟猾に尋ねた。

「汝はどのように備えているのか?」

弟猾は答えた。

「私は天津神の命に背きません。しかし、私の兄である兄猾は天津神の命に逆らっています。」

「天津神の御子が、斯羅人と結託した長髓彦を追い払うために軍を起こしたと聞き、それを阻もうと軍勢を集めています。しかし、国の人々は『我々は天津神の御子の命には背かない。斯羅人と手を結ぶ長髓彦の言には従わない』と言い、軍には加わりませんでした。」

「しかし、兄猾はこれに怒り、ますます頑なになって天津日嗣の御子を討ち取ることを企みました。急いで大屋戸を築き、その中に落とし穴を設け、天津神の御子をおびき寄せて倒そうと考えています。」

この話を聞いた 天津神の御子(日高狭野の命) は、大久米の命、道之臣人の命、斎部の命たちと相談し、底土照田の命、岩柝春蒔の命の二人を派遣することにした。

ここで 兄猾が参上し、こう申し上げた。

「私は新しい殿(宮)を建て、天津神の御子を迎えて宴を開きます。どうぞお越しください。」

二柱の命は兄猾の言葉を聞き、その態度の表面は和やかであったが、その目には隠れた悪意を見抜いた。そして弟猾の報告の通り、兄猾は邪悪な企みを持っている ことを確信した。

怒りを露わにした二柱の命は言った。

「汝は日高の御子を害そうとしながら、表面では飾り立てた言葉を吐く。目をくらませようとするのは、心が邪悪だからだ!」

そして、「汝が作った殿に自ら座るがよい!」 と怒鳴りつけ、兄猾を縛り上げ、強引に殿の中へと押し込んだ。

兄猾は 否応なくその殿に入り、仕掛けた落とし穴に落ち、落ちたまま圧死した。

その後、兄猾の亡骸を引きずり出し、首を切り落とし、その血は大地を流れ、踵が浸るほどになった。このことから、この地を 「血原(ちはら)」 と呼ぶようになった。

弟猾の嘆きと決意
弟猾は兄の遺体にすがり、泣きながら言った。

「なんと儚いことか……。しかしながら、私たち男たちは、遠い祖先から受け継いだ家を守らねばならない。」

そして、兄の息子である 猾太郎を後継者として家を継がせることを願い出た。

天津神の御子(日高狭野の命)は、「それがよい」と答えた。

弟猾は天津神の御子に忠誠を誓い、宴を催した。そして、大御饗(おおみあえ)を奉り、清酒と濁酒を準備し、以下の食材を捧げた。

伊勢津海で獲れた魚の広い鰭(ひれ)と狭い鰭
沖の海藻(沖津藻菜)と、浜辺の海藻(辺津藻菜)
莵田で獲れた川魚
山菜や野菜
これを天津神の御子に献上した。

しかし、天津神の御子はこう言った。

「私の手柄ではない。この勝利は、将軍や軍人たちの功績である。」

そして、弟猾が捧げた大御饗(ごちそう)を軍の兵士たちに与え、自らは食さなかった。

日高狭野の命の歌
このとき、日高狭野の命は歌を詠んだ。

莵田の高城に 鴫(しぎ)羂(わな)張る
我が待つよ 鴫は羅(と)らず
いさくわし 鷹鳥い寄り
前妻 肴乞(さかなご)わば
立そばの 実の無げくを
幾許(いくばく)ひえね

後妻が 肴乞わば
いちさかき 実の多けくも
幾許(いくばく)ひえね

エエしヤこしヤ ああしヤくしヤ
こハ いごのふぞ

この歌の意味は、「敵を倒し、勝利の宴を楽しむときが来た」 という喜びの表現であった。

これにより、天津神の御子の軍は士気を高め、さらなる戦いへと進んでいった。
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38,4
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ここで天津神の御子(日高狭野の命)は、大久米の命、中臣道之臣人の命、太玉大富の命をはじめ、臣たちや大伴の将たち、軍の兵士たちとともに進軍し、莵田の十市に入った。

すると、十市の国主である兄磯城麿と弟磯城三郎が八十の禍らゐ(敵軍)を率いて待ち構えていた。女手坂には女の軍勢、弓手坂には男の軍勢を配置し、大道や小道の道筋を狭めて、赫炭(赤々と燃える炭)を敷き詰めた罠を仕掛けていた。その奥には岩洞に兵を集め、伏兵として待機させていた。

このため、この地は後に磐余と呼ばれるようになった。

この道は狭く険しく、軍が進むことができないほどだった。そこで天津神の御子は太玉若道の命に命じ、天津呪り(神々の加護を求める祈祷)を行わせた。これを受け、天津大神が託宣を下した。

「まず八咫烏を遣わし、弟磯城四郎を召して話をつけるがよい。」

この託宣を受け、天津御子は八咫烏を使者として派遣した。

八咫烏は飛び立ち、まず兄磯城太郎の陣営の門木(門の上にある横木)にとまり、羽繕いをしながら、「かあこ、かあこ、いざわいざわ」と鳴いた。

これを聞いた兄磯城太郎は怒り、腹をかきむしりながら叫んだ。

「なんとも忌々しい! 何故にこの鳥はこうもうるさく鳴くのか!」

彼は弓を取り、八咫烏を狙って矢を放った。しかし矢は外れ、八咫烏は飛び去った。

ところが、その矢は兄磯城太郎の息子である若磯城郎が待機していた部屋に飛び込み、彼を射殺してしまった。

八咫烏は次に弟磯城四郎の家の棟にとまり、再び「かあこ、かあこ、いざわいざわ」と鳴いた。これを聞いた弟磯城四郎は恐れおののき、両手を八回も打ち合わせて天津神の御子に祈りを捧げた。そして「天津神の御子にお仕えしたい」と決意し、八咫烏の導きに従って密かに裏道を通り抜け、天津神の御子のもとに降伏しに来た。

天津神の御子は弟磯城四郎に尋ねた。

「お前はどうするつもりか?」

弟磯城四郎は答えた。

「私は過去に天津神の御子に従おうと考えていました。しかし、私の兄である兄磯城太郎は天津神の命に従わず、斯羅人の言葉に従ってしまいました。」

天津神の御子はさらに尋ねた。

「斯羅人の軍の将は何人おり、それぞれどこにいるのか?」

弟磯城四郎は答えた。

斯羅人の大将は登美の長髓彦であり、国見岳に千人の兵を集めている。次の将は兄倉下・弟倉下であり、高倉山に百八十の兵を率いている。その次の将は赤銅三郎であり、吉野のさたき(現在の吉野山のあたり)に八十の兵を集めている。

これらの将軍たちは、それぞれの陣地に兵を集めていた。そして、険しい地形を利用して戦おうと企んでいる。

弟磯城四郎の情報により、天津神の御子たちは敵の布陣を把握することができた。この情報をもとに、天津神の御子たちは戦略を練り、長髓彦を討つ準備を整えることとなる。
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38,5
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ここで宇麻志眞手の命は、蓑笠を身にまとい、秀鍬(鋭利な鍬)を肩に掛けた姿でやって来て、天津神の御子に「お目通りを願います」と申し出た。

ここに太玉大富の命が迎えに出て、「あなたはどのような身分の方なのか?」と尋ねた。

宇麻志眞手の命は答えた。

「私は天津神の子孫である。」

「では、どの天津神の御裔(子孫)にあたるのか?」と問われると、彼はこう答えた。

「私は天照国照彦櫛明玉饒速日の命の子孫である。私の父は宇麻志速日の命。そして、覇精高である登美の長髓彦の妹、炊屋姫(またの名を鳥見屋姫)を妻に迎え、その間に生まれたのが私、宇麻志眞手の命である。」

「私がここへ参上した理由はこうである。伯父である長髓彦が策略を巡らせ、私が佩いている太刀(天津神の証とされる剣)を譲るよう求めてきた。しかし、私はそれを拒んだ。すると、長髓彦は私を殺そうと企んだため、私は命を守るために山奥に隠れていた。」

「しかし今、天津御子が斯羅人と結託した禍らゐ(災いをもたらす者たち)を追放しようとしておられると聞き、ここへ参りました。私は天津神の御子に力を添え、大御国(この国)の穢れを払う手助けをしたいと願っております。」

これを聞いた日高狭野の命(天津神の御子)は、宇麻志眞手の命の忠義と志を大いに称え、深く愛しんだ。

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38,6
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ここで臣の上である速玉山田の命と山背柏の命が参上し、申し上げた。

「我らは今朝の明け方、空をじっと見ておりましたところ、たうの山の頂から火丹色(赤い色)の雲が立ち昇り、中天に広がるように見えました。そしてその後、四方から黒い雲が湧き起こり、その火丹色の雲を覆い隠しました。この様子を見るに、今回の戦いは非常に不吉に思われます。ただ前方の敵と戦うだけでなく、背後にも禍(わざわい)をもたらす者がいて、我らの進軍を妨げようとしているのではないかと思われます。」

これを聞いた天津日嗣、狭野の命(天津神の御子)は、中臣道之臣人の命、斎部大富の命とともに、この二柱の上の申し出を慎重に議論し、次のように仰せられた。

「この二柱の上の報告は決して虚言ではない。ならば、誰かを遣わし、この異変の正体を確かめさせよう。」

ここで積羽若菱守の命が進み出て申し上げた。

「私がまいりましょう。そして、この火丹色の雲と黒雲の意味を明らかにしてまいります。」

これを聞いた天津日嗣の命は、「それがよい、頼むぞ」と応えた。
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38,7
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ここで積羽若菱守の命は、軍装を整えて出陣した。しかし、通常の戦装束とは異なり、鉢瓮(かぶとのような防具)をかぶらず、また矢を防ぐ鎧も身につけなかった。その上、華やかな衣を身にまとい、牧場の背高馬にまたがり、後方の山々や野原を駆け巡りながら、周囲を鋭く見張り、敵の動きを探った。そして、状況を確認したのち、戻って報告した。

「層富(くさか)郡の波多多(はたた)の刀自、新城三郎がいる。この者は八十百(八千)の兵を率い、西の山の上に陣を張っております。

また、和珥坂(わにさか)には、居勢(いせ)の村主、亀之子六郎がいる。この者は百八十の兵を率いて、背後の南の山谷に潜み、身を潜めています。

さらに、臍見(ほぞみ)の長柄の村主、猪之子四郎がいる。この者は八十百の兵を集め、背後の北の山峡に陣を敷いております。

これら三か所の土蜘蛛(異族たち)は、皆、登美彦の命を受けて悪行をなす者たちです。

また、高尾張(たかおわり)には、砂魚(いさご)八郎・砂魚九郎という兄弟がいます。この兄弟は体の大きさこそ普通の人の半分ほどしかありませんが、手足が異様に長く、そのため『夷蜘蛛(えみしぐも)』と呼ばれています。この者たちは手足の力が非常に強く、それを活かして多くの兵を集め、勝手気ままに悪行を繰り返しています。そして、今回の戦では登美の長髓彦に賄賂をもらい、天津神の御子を討つために加勢しているのです。

よって、南と西の二方向に兵を集め、これらの四つの陣を築きました。この禍(まが)らの者どもは、皆、勇猛で強力です。これは、登美彦が率いる軍勢の一部にすぎません。

さらに、内部には登美彦のほかに、兄磯城太郎、兄倉下、弟倉下、赤銅三郎という四人の将軍が千萬(万単位)の軍勢を従え、御軍(天津御子の軍勢)を押しつぶそうと待ち構えています。

加えて、外部には丹敷三郎、亀之子六郎、猪之子四郎、砂魚八郎、砂魚九郎という五人の悪人が八百の兵を率い、外側から挟み撃ちにして、天津神の御子の軍勢を完全に討ち滅ぼそうと企てています。」

積羽若菱守の命は、このように詳細な報告を行った。

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38,8
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ここで天津御子は、状況の可笑しさを感じて、次のような御歌を詠んだ。

「禍坂(まがさか)の奴(やっこ)の室屋に 人多に
入り居りとも 人多に来入り居りとも
瑞々し 久米の子らが 頭槌(かしらつち)い 石槌い持ち
撃ちてし止まに」

(意味:敵が禍坂の館にたくさん集まっていようと、どれだけ多く入り込もうと、勇敢なる久米の兵たちが頭槌(兜)や石槌を持って撃ち倒してしまうだろう。)

こうして天津御子は、敵の多さをものともせず、自軍の強さを信じていた。
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38,9
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ここで、中臣道之臣人の命と斎部大富の命は共に策を練り、宇麻志眞手の命にこう言った。

「汝よ、今われらは四方に敵を囲まれ、卵のように包囲されてしまった。汝にわれらを助ける策はあるか?」

宇麻志眞手の命は答えて言った。

「われに策あり。」

「いかなる策か?」と問うと、宇麻志眞手の命は答えた。

「われが佩いているこの太刀は、天津御璽の神宝である。この太刀を登美彦が求めたが、われはそれを与えなかったため、登美彦はわれを殺そうと企んでいる。そこで今、登美彦にこの太刀を渡すと持ちかければ、登美彦はわれを信じ、心を許して養うだろう。その隙をついて、われは登美彦の首を刺し、討ち取る。」

これを聞いた天津御子は「よし」と答え、太玉大富の命を添えて次のように命じた。

「われは自ら国見の岳へと進み、登美彦の館を攻める。その時、鳴り鏑(音を立てる矢)をその館の屋根へと射込もう。よってその時、汝ら二人は、それを合図として、ためらわずに撃ちかかれ。」

こうして、天津御子は慎重に戦の準備を進めた。
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38,10
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ここで、天津御子は中臣道之臣人の命に告げた。

「この忍坂の砦には、兄磯城太郎、兄倉下、弟倉下が率いる軍勢が千万人も集まっている。彼らは皆、強大であり、まともに戦っても容易に倒せるものではない。そこで、彼らを滅ぼす策はあるか?」

中臣道之臣人の命は答えた。

「あります。」

「どのようにするのか?」と天津御子が問うと、中臣道之臣人の命は答えた。

「こうこうと実行します。」

「よし」と天津御子は言い、指示を与えた。

次に、積羽若菱守の命と速玉山田の命に向かって言った。

「汝たちは、この吉野のさたきにいる赤銅三郎を討つための策があるか?」

二人は答えた。

「あります。」

「ならば、実行せよ。」と天津御子は言い、命令を下した。

また、水分畑彦の命には、こう言った。

「層富の郡の波多多の刀自、新城三郎が屯している西の山の上へ向かい、彼らを残らず討ち取れ。ただし、もし降伏して参った者があれば、決して殺してはならぬ。」

さらに天津御子は続けて言った。

「これは忍坂の十市に火が上がったなら、攻撃を仕掛けよ。まだ火が上がらないうちは、待機せよ。」

また、甕槌百合武の命には、こう命じた。

「丸邇坂の居勢の村主、亀之子六郎が屯している南の山谷へ向かい、彼らを討て。」

岩柝春蒔の命には、

「臍見の長柄の村主、猪之子四郎が屯している北山の峡谷へ向かい、彼らを討て。」

手力国守の命と雷漏の命には、

「高尾張の土蜘蛛、砂魚八郎と砂魚九郎の兄弟が屯している南西のくく山に向かい、彼らを討て。」

さらに天津神の御子の軍の印として、大きな御幡を掲げ、それには太陽と月を象徴する模様を打ちつけた。そして、胸の前に大きな横貫きの鈴を提げ、八つの群れに千幡を掲げ、伊吹(軍の士気を鼓舞する吹奏)を響かせ、軍を配置した。

また、将軍や臣たちの軍勢は、それぞれの家の印となる旗を掲げ、八つの列に並べ、布を垂らした幡を翳して、非常に荘厳な戦の態勢を整えた。

ここで中臣道之臣人の命は、天津宮御子である手研耳の命に申し上げた。

「この戦いの敵は非常に強大であり、寄せるのも難しい状況です。そこで、一つ策があります。いかにしてご自身を捨てて、この国の穢れを祓おうとお考えでしょうか?」

手研耳の命は、「よし」と答えた。

また、天津御子は、「椎根津彦は非常に勇猛な者である」と言い、彼を召し寄せた。
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38,11
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そこで、椎根津彦の命が参上した。ここで中臣の命が彼に言った。

「汝は猛き者である。この忍坂の敵は非常に強く、まともに攻めても寄せつけぬ状態である。どうやって攻め込むべきか?」

椎根津彦の命は答えた。

「あの女手坂の女軍に、我が男軍を向かわせて攻めかければ、敵はその女軍を救おうとして、女手坂へと向かうであろう。すると、今度はその女軍を救うために、彼らの男軍が、守っている炭火を放棄して女軍の救援に向かうに違いない。

そこで、その隙に我が女軍に命じ、莵田川の水を汲ませ、忍坂の炭火に注がせて消し去る。そして、直ちに忍坂の敵の不意を突いて攻めかかれば、敵の軍勢は崩れ去ることは間違いない。」
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38,12
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そこで、中臣の命は手研耳の命に申し上げた。

「この敵は強く、容易に攻め落とせぬ。そこで、密かな策略を立てる。まず、登美彦に『罪を贖う』と言って、汝の命を奥津喪戸(死者を葬る場所)に閉じ込め、人身御供として差し出したと見せかける。そして、酒や肴を豊富に用意し、それを贖いの品として兄磯城太郎に贈り、彼をもてなして懐柔するのだ。

兄磯城太郎は、心が緩み、油断し、我らの饗宴に加わるだろう。その様子を見たら、椎根津彦の命はすかさず女手坂へと突撃し、計画を実行せよ。また、酒宴がたけなわになり、兄磯城太郎がその場を離れがたくなった頃、私は立ち上がり、歌いながら舞い踊る。その歌声を聞いたなら、汝は喪戸を蹴破って飛び出し、兄磯城太郎を刺し殺すのだ。そして、椎根津彦の命も計画に従い、同時に攻撃を開始せよ。『一斉に動け!討て!』と号令をかけ、汝と私は内側から攻撃し、椎根津彦の命は外から敵を打ち倒すのだ。」

こうして、中臣道之臣人の命は、手研耳の命を奥津喪戸に幽閉し、目の前に差し出して人身御供と見せかけた。兄磯城太郎はこの申し出を受け入れ、酒宴が開かれた。彼が酒に酔い、気が緩んだ隙を見計らい、道之臣人の命は立ち上がり、声高らかに舞い踊りながら歌った。

「忍坂の大室屋に、人身御供を捧げようとも、捧げようとも。
瑞々しき久米の子らが、原垣に頭椎(つちい)を持ち、原垣に石椎(いわつちい)を持ち、
討ちて止まん、討ちて止まん。」

この歌を聞いた手研耳の命は、喪戸を蹴破って飛び出し、佩いていた八握剣を抜いて、兄磯城太郎の首を一刀のもとに斬り落とした。すると、中臣の命も太刀を抜き放ち、一緒に敵を切り伏せながら突撃した。

同じ頃、椎根津彦の命は外にいた敵を攻め立て、御軍の兵士たちも次々と突撃し、敵兵の百千を討ち倒した。忍坂の室屋は炎に包まれ、敵の軍勢は尽く滅び去った。

この勝利を喜び、御軍の兵士たちは歌った。

「今こそよし、今こそよし、ああ喜ばしや。
いまだにも、吾が子よ、いまだにも、吾が子よ。
ええしや、ええしや、ああしやくしや!」

ここに天津神の御子も、勝利の喜びを込めて詠んだ。

「楯を並べて、伊那佐の山の、木の間より
行き守られて戦えど、我はすでに飢えたり。
島津の鳥よ、鵜を飼う者よ、今こそ助けに来よ、来よ!」
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38,13
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このとき、積羽若菱守の命と速玉矢俣の命は、吉野のさたきに集まる土蜘蛛の赤銅三郎の軍勢に向かって進軍した。赤銅三郎は策略を巡らし、道を狭くして柴や薪を敷き詰め、伏せておいた。御軍の陣営に接近する頃合いを見計らい、敵軍と向かい合って睨み合っていると、南風が激しく吹き始めた。

そこで赤銅三郎は「今こそ好機なり」と叫び、敷いておいた薪に火を放った。その火はたちまち天を焦がし、南風にあおられて御軍の陣地の山野にも燃え広がり、御軍の兵士たちはひどく苦しみ、息も絶え絶えになった。

そこで将軍である積羽若菱守の命と速玉矢俣の命は、その燃え盛る炎の前に立ちはだかり、布垂れの幣を取り出して振り、呪文を唱えて神事を行った。そして、幣を左に振り、右に振って神の業に仕え祈ると、空を焦がす炎はたちまち逆風となり、風向きが西北風、北風へと変わった。

その結果、燃え盛る炎は敵軍の陣地に吹き返し、敵の軍勢を焼き尽くした。多くの敵兵が炎に包まれ、負傷して戦えなくなった。そこで御軍の兵士たちは武器を手に取り、残った敵を討ち倒し、殺し尽くした。

さらに、敵の一人である赤銅四郎が吉野の川の深い谷に身を潜めていたのを見つけ出し、引きずり出してその首を斬った。こうして、この地は「くびき(首斬り)」と呼ばれるようになった。
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38,14
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このとき、十津山に陣取る女軍人の部隊を討つために進軍することとなった。進軍の目印として、忍坂の空に燃え上がる炎を目当てにした。

水分幡彦の命は、軍勢を整えて西の山の高嶺を目指して進軍した。
甕槌百合武の命は、軍勢を整えて南の山谷の高嶺を目指して進軍した。
岩柝春蒔の命は、軍勢を整えて北の山峡の高嶺を目指して進軍した。
手力国守の命は、軍勢を整えて南西の隅の高嶺を目指して進軍した。

この四つの部隊が、それぞれの土蜘蛛たちを討つために向かうと、その動きを見ていた敵方の人々は、恐れをなして言い交わした。

「私たちは皆、神の子孫であるのに、なぜ悪しき行いをして、斯羅人国の言葉に従い、登美彦の命令に諛(へつら)い、天津御子に叛くのか?」

そう語り合い、これまで「禍らゐ人(悪しき者)」と呼ばれていた者たちも次々に集まり、新城三郎の家の足元に火を放ち、その館を焼き払った。

これに耐えきれなくなった新城四郎は、裏門から逃げ出して走り去ろうとした。しかし、そこにいた吉野の広麿が、竹で作られた弓に篠矢をつがえ、狙いを定めて放った。その矢は、層富の郡の波多多刀自、新城四郎の後頭部から顔の左目へと突き抜け、その場に倒れ伏した。

さらに広麿は、太刀を抜いて、新城四郎の首を斬り落とし、その頭を矢が貫いたまま持ち帰り、水分幡彦の命のもとへと届けた。そして、「この者の罪を贖いました」と報告した。

水分幡彦の命はその功績を高く称え、広麿に「広九郎の上」という名を授けた。

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38,15
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そこで、南の山に陣取っていた敵も、同じように軍勢が崩れた。

その場にいた者たちは、和珥の居勢の村主である亀之子六郎を討とうとし、皆が武器を振り上げて討ち取ろうとした。亀之子六郎は東の方角へ逃げようとし、彼に従う大伴の部下たち十二人も馬に乗って一緒に逃げた。しかし、その途中で、亀之子六郎が乗っていた健駒(優れた馬)の後ろ脚が折れてしまい、後ろ向きに転び落ちてしまった。

これを見た大伴の十二人の部下たちは、すぐに馬から飛び降り、亀之子六郎を抱え起こし、「馬をお召しください!」と助けようとした。しかし、その間に敵の隙を突いて味方が駆け寄り、彼らが馬を整える暇もなく、和珥の居勢の村主である亀之子六郎と、大伴の部下たち十二人をすべて討ち取り、その首を持って甕槌百合武の命のもとへ捧げた。

首を捧げた者たちは、こう申し上げた。
「私たちは本来、このような悪しき者どもに従う者ではありません。しかし、今まで彼らは強く、もし逆らって斯羅人に背けば、登美彦によって罪を負わされ、殺されてしまうため、皆、屈して従うしかありませんでした。しかし、今、天津御子様と臣の上たちが登美彦を討とうとしておられると聞き、私たちも力を得て、このように戦い、罪を贖いました。」

これを聞いた甕槌百合武の命は、「それはお前たちの罪ではない」と称賛し、皆に酒と肴を振る舞われた。
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38,16
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また、北の山峡に陣取っていた敵の軍勢も、同じように軍勢が崩れた。その者たちが逃げ込んだ館を、四方から囲んで矢を放ち、臍見の長柄の村主である猪之子四郎と、その家族二十余名をすべて射殺した。そして、岩柝春蒔の命が「かくのごとく、罪を贖いました」と申し上げた。

これに対し、現人たち(戦った者たち)を大いに褒め称え、鰭の広い魚を八塚に積み上げ、さらに楮布で裂いた太御幣を八重に掲げ、彼らの功績を讃えた。-------------
38,17
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南西の隅に陣取っていた八百千の軍人たちも、同じように敵軍を討ち果たしていた。

その時、砂子魚八郎と砂子魚九郎、そして大伴の禍ら(悪しき者たち)二十余名は、自軍の兵が官軍(天津御子の軍)に寝返ったことを知り、自ら室戸(館)に火を放ち、燃え盛る館を背に飛び出してきた。そして、彼らの残った軍勢に向かって猛攻を仕掛けた。

この時、軍の現人たちは皆口々に叫んだ。
「お前たちは斯羅人の軍か! 我々は官軍である!」

こう叫びながら、彼らは武器を構えて応戦しようとした。しかし、砂子魚八郎と砂子魚九郎、そして大伴の禍ら二十余名は、すぐさま高尾張の山背の岩洞(ほらあな)に隠れ、その前面に葛麻(ツル植物)を練って網を作り、八重に引き渡して罠を仕掛けた。

そこへ突入した現人たちは、その網に絡まり、岩洞の中から長鉾で突かれて次々と命を落としていった。これにより、八百の現人たちは進むことができず、追い詰められてしまった。

この報告を聞いた手力国守の命は急ぎ駆けつけ、状況を確かめた。そして、「この土蜘蛛どもを討ち果たさねばならぬ」と考え、すぐさま自身の御子である家継ぎの長男・手力鐸の命と、次男・手力健身の命に向かって言った。
「お前たちは、この土蜘蛛どもが立て籠もる岩洞を打ち崩し、彼らを討て!」

こうして、二柱(ふたり)の御子たちはその岩洞をよく観察した。それは、およそ二尋(約四メートル)の厚みを持つ巨大な岩であった。

二柱の上(御子たち)はその岩の上に登り、険しい岩肌を駆け上がると、岩の頂で高く叫び声をあげ、一気に岩を蹴り落とした。すると、その巨大な岩は真っ二つに裂けた。

岩が崩れると、土蜘蛛たちは耐えきれずに逃げ出した。しかし、彼らは自分たちが張り巡らせた網にかかり、もがき苦しんだ。そこへ、現人たちが一斉に武器を振るい、敵を討ち果たしていった。

しかし、砂子魚八郎と砂子魚九郎の兄弟だけは、その網を潜り抜け、逃げようとした。

これを見た手力国守の命は、すぐさま砂子魚八郎を足下に踏みつけ、その場で押し潰して殺した。そして、砂子魚九郎を掴み上げ、その首を強く握りしめ、力任せに引きちぎって殺した。

この戦いが終わると、そこにいた現人たちは皆大いに喜び、宴を開いて天津御子の命に感謝を捧げた。

それを見た手力国守の命は、彼らの忠義を称え、楮布(こうぞの布)で作られた大御幣を現人たちに賜った。
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38,18
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同じく忍坂の戦場で火が燃え上がる中、天津神の御子(狭野の命)と大久米の命、大伴の長たち、そして百千の御軍人を率いて、国見の岳に陣取る登美彦(長髓彦)の軍勢に向かって駆け寄り、戦いを挑んだ。

戦いが始まると、登美彦の軍の者たちは次々に崩れ、散り散りになって逃げ出した。

この時、天津神の御子は、自らの佩いていた鳴り鏑(音を立てて飛ぶ矢)を、登美彦の館へ向けて放った。その矢が突き刺さると、宇麻志眞手の命と太玉大富の命は、すぐに佩いていた十握の剣を抜き、登美の長髓彦を責めて言った。

「お前は、我が御祖の神から授かった天之羽々弓(あまのはばゆみ)と天之羽々矢(あまのはばや)を使い、己の好き勝手に振る舞い、天津神の裔(みうね)だと偽って現しき青人草(生きる民)を欺き、さらにこの生駒の宮代に仕える神の神実代(神の証)を盗み取り、我が物顔で名乗り上げた。

それだけでなく、我が御祖の神実(かみのしるし)まで奪い取り、さらに我をも殺そうとした。また、斯羅人(異国の者)と結託し、悪しきことを企て、国を穢し、天津御子(狭野の命)を討とうとし、この豊道之原(日本の地)を奪おうと謀り、斯羅人を頼りに従えた。

故に天津大神(天の神々)は、これを大いに怒り、お前の罪は極めて深い。もはや、この豊道之原にお前の居場所はない。天津大神の大御言に従い、我に命じられたまま、お前を誅する!」

そう告げると、長髓彦(登美彦)は答えた。

「確かに、我が罪は深い。故に、決してお前の手を汚させることはない。私は自ら命を絶とう。」

そう言うと、長髓彦は直ちに自ら首を吊り、死んでしまった。

この「登美彦」という名は、彼がもともと異国の者(斯羅人)と親しんでいた時の名であった。故に、これ以降、長髓彦のことを「登美彦」と呼ぶようになったのである。
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38,19
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その時、太玉大富の命は、登美彦の親族や家族を追い払うために、大きく雄叫びを上げ、猛り立った。すると、敵対する禍いの者たちは、命を奪おうとして彼を取り囲んだが、太玉大富の命は頭椎(かぶつち、武器の一種)を抜き、敵を次々と斬り倒していった。

その時、天津神の御子(狭野の命)、大久米の命、大伴の長たち、そして軍人たちは、皆それぞれの武器を手に取り、周囲を取り囲んだ者たちを次々と斬り殺し、撃ち倒し、棄て去った。ただし、戦いから逃げる者たちはすべて見逃し、助けてやった。

このとき、登美彦(長髓彦)の七男である髓田輪之男郎は、屋敷の側の戸からひそかに抜け出し、南へ逃げ走った。しかし、大伴の上(軍の指揮官たち)が彼を捕らえ、縛り上げ、天津神の御子の御前へ引きずり出した。

そこで、太玉大富の命と宇麻志眞手の命の二柱の神は、この者を見定め、天津神の意に従って、正しい裁きを下し、罪を清め、祓ったうえで、命を奪わずに許し、放免した。

ここにおいて、天津神の御子、大久米の命、中臣道之臣人の命、太玉大富の命、臣の上たち、大伴の長たち、軍人たちは、皆ともに引き上げ、国中に勝利を告げた。これにより、国の秩序は安定し、平和が訪れた。

その後、日高の宮へ帰還し、勝利の報告を申し上げた。
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38,20
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同じころ、牟婁(むろ)の斯羅人討伐を指揮していた将軍、高倉下の命は、斯羅人を追い払ったことについての報告を行った。その際、稲飯の命、三毛野入野の命、そして五人の臣の上たちが、鋤持ちの神となり、外津世(異国)の者たちを皆討ち果たしたことを、詳細に語り上げた。

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38,21
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その後、牟婁の地に新たな宮を建て、稲飯の命、三毛野入野の命、下春蟹津見の命、太玉七尾谷の命、甕椎幸彦の命、剣八重太刀の命、斎部別道の命という七柱の神を祀り、これを「海津の大神」として奉斎した。

そのため、この場所を「和田津(わだつ)」と呼ぶようになった。
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38,22
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天津御子の命は、日嗣の宮御子に向かって、「国がすべて平定されたので、国中を巡ろう」と告げ、高倉下の命、大久米の命、高津上の者たち、臣の上たちを率いて牟婁(むろ)の地へ出向かれた。

ここにおいて、御軍に従う現地の人々は、皆集まって祝いを捧げた。そこで、天津御子の命はさらに臣の上たちを召し寄せ、次のように命じた。

「表春楮緒玉の命、息長岡玉の命、天国戸渡の命、思金村立の命、弥都波菱守の命、児屋竹取彦の命、御桙峡山の命、中臣道之臣人の命、斎部大富人の命、そして高津上、明津上、清津上、厳上、並上たちよ。

この国の人々は、御軍人として尽力し、己の命をも捨てて戦いに励んだ。彼らの努力によって、禍をなす者たちは追放され、国は平和となった。これは、国の人々の功績である。よって、彼らを称え、報いることにしよう」

そして、次のように制度を定めた。

「国の建設を担う者として、臣の上たちは五十歳をもって国の役人とし、民の指導者とする。また、

五十歳を迎えた者を村主(むらぬし)とする
六十歳を迎えた者を戸主(へぬし)とする
七十歳を迎えた者を里主(さとぬし)とする
八十歳を迎えた者を国主(くにぬし)とする
九十歳を迎えた者は、臣の上代(おみのうえしろ)と称し、国の指導者とする
また、年少で功績のあった者には、その年齢に応じて五年、七年の歳を加えて称えよう」

これにより、牟婁の地の人々は大いに喜び、天津御子の命に向かって祝いの楽を奏で、国中で歌い踊って歓喜した。

その後、天津御子の命は吉野へ出向かれ、そこでも国内の人々に報奨を与えた。さらに宇陀へ進み、同じく賞を与え、次に宇治へ巡り、国ごとに巡行して、人々を労い、賞を授けた。

こうして、国内は完全に安定し、平和な国となった。

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39,1
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上津文 三十九の綴り
ここに高千穂の大宮に天津御子の命 宮御
子の上たち 高津上たち 明津上たち 並べ
に臣の上たち 共に これの飢え年に現しき
青人草を助けに と云て 国足しに御往きた
まウ時に 秋津根の覇精高 長髓彦 斯羅人
と呆けて 国に禍津事を為し奸るからに 国
の現人 皆 屈み世なして 皆泣くと聞こし
めして これの国平けと言て 宮の日嗣の御
子 五瀬の命御出ましを 悪じ人障エて こ
れの御子を殺しまつり また国の建をも殺し
つと聞こえて 宮守に任ぎまつる高津上たち
臣の上たち 共に御心辺を促したまウ時に
手研耳の命 陸ゆ御還りたまイき ここに
臣たち目見エたまウに いと捗々しき事無く
で 唯に震イ慄きます ここに臣たち いと
怪しとて 賀詞も奉らさりき これの時 日
嗣御子 神渟名川耳の命ハ 御母の命と御兄
弟の命と 直入の大宮に渡らせたまイき 故
手研耳の命ハ これの宮に入りたまイき
高千穂記 出雲記 常陸記 越記 皆 言
らく 先に日高狭野の命 阿蘇の覇精高の上
阿多の小椅の命 妹 小阿多姫の命の御子
阿比良野姫の命に通わせたまイて 生れま
せる御子の御名ハ手研耳の命 次に岐須耳の
命 これの二柱の御子生れませる故に 後に
向妻とならせたまイき
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39,2
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それの時 宮御子 大久米の命 日高狭野
の命に告り言ちけらく 汝命の妃とならむ娘
これの臼杵の伊須気の村に在り 故 召さ
しめよと言 狭野の命 御答エ申しけらく
吾が心隨に妃召しなしてハ 遠津御祖の神言
に違イて 良ず と申しき 故 大久米の命
然ならず 此ぞ神言にある そハ七十代の
天津御子の命 大国小和田の命の御娘 勢夜
陀多良姫の命 これの姫 常並めに遙かに秀
れたまイて 眉目美かりき 故 これの姫に
こ 夜毎に通わせたまイて 産しめたまエ
る御子にぞある 御名ハ余理姫の命と申す
御子を生しまつれども 御妾にも召されませ
ず故に 甚恥し と言て これの娘を抱きて
山隠りたまイき 故 これの娘の御名を伊須
気余理姫の命と言 此も 御母の命に眉目容
姿秀れたまイ 御心も神心なす 故 見たま
ゐ 触れたまエ と言
-------------
39,3
-------------
ここに臼杵の伊須気野に御遊びたまウ時に
七媛女 其処に遊べり 余理姫の命もそれ
の中に遊び居りき 故 大久米の命 狭野の
命に後手ゆばして 競べ歌イけらく
臼杵の伊須気広野を
七遊ぶ 少女朋輩
誰をし纏かに
ここに狭野の命ハ その前立てる女こそ余
理姫に在らめ と言て 歌イたまわく
かつかつも 弥前立てる
兄をし纏かむ
故 ここに大久米の命ハ 日嗣の御子の思
ほさしを 余理姫の命に言依せなさに と言
に 余理姫の命 久米の命のまさにと黥る利
目を 奇しと思ほさして歌イけらく
【あめつつ かみのかちどり
猿子鳥巫鳥
何ど 裂ける利目】
と歌イければ また 大久米の命 歌イけ
らく
媛女に 直に逢わむと
吾が 裂ける利目
と歌わしたまイき 故 その少女 仕ゑま
つらむ 然れども 吾ハ申さじ 御母に申し
たまエ と言 ここに大久米の命ハ 臼杵の
伊須気に出往きたまイて 勢夜陀多良姫の命
に言向けたまゑば 陀多良姫の命 甚く喜び
て 楮の白布の太御幣物を取り添ゑまつりき
天津日嗣の御子 日高狭野の命ハ 其の伊
須気依姫の命を妃となしたまイき
-------------
39,4
-------------
ここにその夜の種々の神訓りの道宣り言
終エまつらにとする時に 日高の御子 御歌
詠みなしたまわく
葦原の 繁こき小屋に
萱畳 弥清敷きて
吾が二人 寝に
ここに御妃 御孕みたまイて 大土小土に
取りなし かむさゑに ちあきゆあきますか
らに 臼杵の大の浜に産室を御建てまさに
と言に 其の杣木 大木 小木 其の臼杵川
の河上なる渟名川の川より流れ下りき 故
此を以て産屋を御建てて 産まつる御子の御
名を 其の川に形取りて 神渟名川耳の命と
申す こハ日嗣の御子に坐すからに 大御名
ハ日高日子波限建鵜葺草葺不合 七十四代彦
の命 後の御名ハ 天邇芸志国邇芸志天津日
高日子波限建神大倭大磐余彦火々出見の命
と申す 次に日子八井耳の命 次に神八井耳
の命 合わせて五柱の彦御子生れましき こ
れの宮御子内に 五男の御子ぞ 天の下知ろ
しめす
-------------
39,5
-------------
ここに手研耳の命 これの直入の宮に入り
まつるに 秋津根の戦ハ今最中なる そを棄
てて宮帰りますことの訝しく 弟の宮御子た
ち集イて 其の事を問わすに 告らし言なま
めけり 御母の阿比良野媛の命の神避りたま
イて それの御骸無くて その御髪毛と御手
の指と残り 跡徒き状を詳さに物事告りたま
ゑども 御嘆きませるも無くて 頓に宮御子
たちを嘯きて睨りたまイ こは甚奇し と言
ども 術無み得ずでありき ここに御妃の命
の大屋窓に 手研耳の命 夜な夜なに通わせ
たまイて 御妃の命を淫けまつらに と事ぶ
る
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39,6
-------------
ここに御妃の命 いとも御身を悩ましたま
ゐて 御子たちに これの態を現さに と言
て 歌イ泣きたまわく
【雨偶ウ 雲立ち渡る 祖母山よ
木の葉騒ぎぬ 風吹かむとす】
御涙を忍しまして 歌ゐたまわく
【なに 祖母山
昼ハ雲飛び 夕されば
風吹かむとぞ
木の葉騒げる】
と歌イ泣かせたまウを 宮御子たち聞かし
驚きたまイて 此ハたたならず と言て 宮
御子 日子八井耳の命 神八井耳の命 日嗣
神渟名川耳の命 岐須耳の命 共に議りた
まイて 中臣春武の命 斎部差別の命 科津
靱之緒の命 丹羽松壽の命 手力狭韋花の命
これの上たちを召さしたまゐて 然々を告
りたまイき
-------------
39,7
-------------
故 高津上たち申しけらく これの手研耳
の命こそ訝しけれ こハ禍物の形化けるにこ
そあらめ 故 天津宮御子たち 天津呪りて
皆八平手に修したまゑ 斯くなさば形化ける
物ハ そが身縮凝りて 病イて臥さに それ
の時ハ 天之羽々弓矢以て射抜きたまゑ と
言 ここに宮御子たち嘆きて告りたまわく
現つに兄の命を射殺しまつらにハ 天津罪を
受けに 故 良わじ と言 臣たち 論らゐ
申しけらく それの御言ぞ甚賢に坐す 然れ
ども 此ハ常人にあり 禍津形化き物にあれ
ば 殺し棄てに罪あらじかし もしもに眞の
兄に坐さば 呪り平手にハ悩みたまわじ 故
頓に坐せ 其の時ハ奴々加エ人まをさに
と言 ここに宮御子たち 臣の上たちの教エ
の如 天津神の神呪りに仕ゑまつれば 手研
耳の命 その夜さゆ 御身震わしたまイて
病ゐ臥したまエば すなわち二俣稚弓の命に
桑木の太弓 篠竹の四羽矢を作らしめ 眞
浦櫛燿の命ハ眞麑の斎裂り鏃を作らしめて
手研耳の命の眠寝ませる御毛の大室所の大床
を窺き見越し見ますに 兄の命 いと快げに
眠寝て 高息嘯に臥させたまゑるからに 日
子八井耳の命 神八井耳の命 二柱共に弓攣
き擬イまつれども その状の兄の命の異なら
ぬを 今討ちまつりて 如何にやハ と思ほ
すに 御身も手脚も震わしたまイて 得射た
まハさりしかば 弟の御子の命 いと御心弱
かりつるかも と言て 其の兄の落とせる弓
矢を取らして 手嵩に張りて放つ矢誤たで
兄の命の胸脇を貫きき 故 手研耳の命起き
居て 怒り面火照らし告りたまわく 如何な
れば吾を射つる 吾ハ汝兄なるに それの汝
を殺さに と言て 躍り跳びて 弟 神渟名
河耳の命を握み伏せき 故 日子八井耳の命
神八井耳の命 御佩かせる十握剣を抜きて
左ゆ右ゆ鍔深に斬り棄てたまゑば いよよ
に怒りて これの二人御子をも亦掻ゐ敷く

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39,8
-------------
ここに斎部差別の命ハ 其の三人の御子た
ち拉く禍物 と言て 後走して 手研耳の命
の御髪を握み 左手 御腰握みて 真嵩に差
して 大地に投げ棄てましき 故 命ハ頤破
れて哭く声雷如し 忽ちにふすりてすためを
蹴抜けて 家の棟を掘り抜けて 哭く声遠な
りて 山隠りに失せぬ 故 こに渟名河耳の
命 日子八井耳の命 神八井耳の命 中臣春
武の命 斎部差別の命 科津靱之緒の命 丹
羽松寿の命 手力狭韋花の命 これの上たち
共に その落ち散る血の零れ跡を従イて 出
往きたまウに 阿蘇の野山に到りき 故 其
処を彼此見そなわしたまウに 大きなる岩洞
の真門を掻き破りて 雄牛ほどなるのま倒れ
て蠢く これののまたと云物ハ猫年経ぬれば
のまとなると皆人言き 故 現世の諺にも
現しき青人草ハ幾年経ぬれば神となりて人を
救ゐ 猫ハ幾年経ぬればのまたとなりて人を
喰ウと言 故 猫ハ十五年過きば殺せ と言
故 八柱の上 ここに参イ越したまウを
野猫窺み見て また起き上かりて これの洞
中に隠る 故 此処を益城と云 故 神八井
耳の命御怒り炎坐し 告りたまイき 汝兄の
御母を喰イ 今亦 兄と形化きとなりて
吾が御母を喰わにとなす 故 御直しに由無
し 故 吾が前に参イ来て失せよ 更 隠り
なさば 吾 これの洞を砕々になさに と言
挙げたまエども なをなをに 隠りて出り出
ざりけり 故 神八井耳の命 向股に脛駆り
たまイて 雄叫びに猛りたまわく 吾が こ
れの左の御脚に 大地を蹴え散らげるえなハ
天の燿山の斎猛火となりて猛れ また右の
御脚に大地を蹴え散らげるえなハ 大岩 小
岩を飛ばして これの洞の禍物幾つを埃とな
せ と誓イたまイて 踏み猛びたまエば 忽
ちに其の山火になりて 山底ゆ大岩小岩を吹
き抜きて空なす 故 其の野猫が屈凝る洞岩
の底津ゆ 大空に吹き昇せて それに棲む野
猫幾らも 皆 砂子の如に失せぬ 故 其の
大岩小岩を高天之原に吹き昇りたるが 天ゆ
逆さまに降り落ち山となる 故 此を野猫山
と云 今ハ根子山と云
-------------
39,9
-------------
ここに日高日子波限建鵜葺草葺不合 七十
一代彦の命 産御名ハ天照国照日子百異日臼
杵の命 秋津根の国の禍物 斯羅人の鬼ども
を 尽々に逐ゐたまイて 現しき青人草の苦
しみを助けたまイつれば 国内穏びて安御世
なす 然れども日嗣の御子 五瀬の命 続き
て臣の上 速玉玉之緒の命 御鉾峡山の命
別雷神眞武の命 大雷伏松の命 これの上た
ちハ皆斬り死去にましたまウからに いとい
と御嘆き小止みたまわずで告りたまわく 吾
ハ宮隠りて これの御子に天津日嗣知ろしめ
さずでハ天津罪なり と云て 高千穂の大宮
御子の命の御佩かせる十握の御太刀を斎きま
つりて 直ちに三種の神宝を天津高御座に捧
げて 日高日子波限建鵜葺草葺不合 七十二
代彦の命と御名を顕したまイ 産御名ハ海津
日子五瀬の命の御魂代に 天の下知ろしめさ
したまイき 此に添エて七十代の天津御子の
命の次男の宮御子 高見香具山の命 またの
御名ハ高倉下の命を天津日嗣の背手の世嚮男
となしたまイて 天の下を安らけく幸わゑ
と言依さしたまイき また四臣の神たちの魂
代に 高津神と称エて言依さしたまイき 故
速玉玉之緒の命の現し背手の上と 中臣道
之臣人の命に言依さしたまイき
また 御鉾峡山の命の御魂代に 現し背手の
上と斎部大富の命に 言依さしたまイき ま
た別雷神眞武の命の御魂代に 現し後手の上
と積羽若菱守の命に 言依さしたまイき ま
た大雷伏松の命の御魂代に 現し後手の上と
速玉山田の命に 言依さしたまイき
-------------
39,10
-------------
然々に 事業に仕ゑまつらしめて 天の下
の全ゆる現人を恵みて 穏び国の諸安国に幸
わゐてよ と告りたまイて また天津三男の
宮御子 天津熊野武の命 またの御名ハ稲飯
の命 次に天津五男の宮御子 三毛野入野の
命 次に臣の上 下春蟹津見の命 太玉七尾
谷の命 甕椎幸彦の命 剣八重太刀の命 こ
れの六柱の上ハいと畏くも 国御為に鋤持ち
の神とならせたまイて これの豊道の大御日
の本津国の千萬国の 母父の始めの祖国の萬
千秋の瑞穂の国を 永遠に固めたまウ大御勲
の神と 天の鋤持ち 国の鋤持ち 国津初
道津初 衝き固めの六柱の大神と御名を称エ
て 吉野の山に斎ゐ祀りて 七十代の天津御
子の命の四男の宮御子 宇麻志内の命 また
の御名ハ大久米の命に言依さしたまイて 斎
きまつらせたまイき 故 その六柱の神を祀
らせたまウからに これの山を六峰の山と云

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39,11
-------------
ここに多芸志耳の命 御祖の御父 天津御
子の命と天津宮御子 並べに臣の上たち共に
高千穂の大宮に御還りたまイて 弟たちの
御話聞こしめさして 御母の命の野猫の形化
きに遭わし 神避りまつることを深く御嘆き
に沈みて御心疎くまして 翌る日毎に悩まし
たまイき 益々に御嘆きの遣る方無くて 御
病イとならせたまイて 今ハ生くべきもあら
ずで臥したまゐき 時に或る夜さに 降る雨
頻き並みていと凄こきに 御母の命 阿比良
野姫の命 常夜の殿に燈を懸げます時に 大
きなる野猫跳び来て その御母の命を喰らわ
に と荒ぶる 故 御佩かせる頭椎の剣を抜
かして 背ゆその動づく野猫を快げに斬り倒
しぬれば 声放ち逃げ去りぬ 故 その御母
阿比良野姫の命 多芸志耳の命に告りたま
わく 汝ハ何どて斯く亡き母のことを思イて
病もイて罷らにするヤ拙し 故 吾が御祖の
命ハ陸奥の国の山に居ます 故 郷之子等
これの山を安達山と云 故 吾を其の山に斎
きて祀らば汝に幸事を授けて国の国辺を助け
なせ と云て夢覚めき 故 ここにまた御母
の命を 仮にこれの阿蘇野に斎き祀りて祷み
て 御父の命さゑに宮出ませず 故 暫し待
たせたまエと申す ここに御母 阿比良野姫
の命告りたまわく 明日の夙めに宮出ます汝
に幸事を與エに と告りたまイき

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39,12
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故 明日の夙めに宮出ます時に 御母の命
現し御身とならせイて 汝 吾に添ウて来
たれ と云 故 告りの隨に従イ往きたまエ
ば 那須山の傍さに出たまイき そこを見そ
なわすに いとも大きなる御殿有り これの
殿に伴なわりて在るに 大床にいと太く逞し
くで 其の表面和やぎたる翁居り 其の傍ゑ
にいと小さく賢しくで その表面雅びませる
翁と並びて在座まして告りたまイつらく 吾
が裔よ 弥も良くこそ参イ越しつれ 汝に現
しき青人草の御生命の長生なさに状を訓り伝
てせむ 疾く疾くと告りたまイき 故 手研
耳の命畏みて八平手に進びたまイき

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39,13
-------------
ここに二柱の大神告り言に言伝てたまイつ
らく 益良男女の真盛り人ハ 一日に三度
存命食ハ種津実五合 周り菜二合 交合 三
か日隔る 木立て湯を一合 木立て湯浴み
五か日隔る 力招き 日並め三度 脛反ら
日並め 道往き 五町 日並め 濁酒と清酒
とひをくり一合 十か日内に一日 大體背の
大骨の節灸なせ 故 そハ蓬草葉を取りて
そを臼以ち搗きて 其の汁を絞りて 其の汁
を喰わして 其の滓を日干しにして乾けるを
解きて 體をうつ伏して 大骨の上に味塩を
置き その上に干し草を盛りて 其に火を鑽
り 燃やせ 腰迄に成さば また頭の散毛な
す所ゆ焼きさだれ これの訓り伝て如なさば
厳きて 皆 生命百年を後なさに と告り
たまイき
-------------
39,14
-------------
また添エて眞薬なすを訓り伝てたまウ
草薬
つし麦実 山芹草根 袁々志草根 波末
比登草根 水葱草根 麻草実 以多知草実
蓮実 阿佐美草根 加波美止利草 安計
比蔓 阿以草実 羅葡実 久良良禰 蕗苔
蕗根 和良比根 奈天之古実 波末多加
奈実 比佐古瓜実 登志々利草 以奴止久差
袁之久左根 屋之上草 水芹草 大葵以
母菜 宇木草 以乃古豆知草根 以多止利草
火丹草 佐禰加都良 白之加母草実 黒
之加母草実 阿之奈豆奈 須倍留草根 比多
以草根 阿末安加菜根 須計根 伊布須
草葉 与豆波草 也万以母菜 於无奈草根
宇止草根 阿利乃比布支草根 具々津花
女奈母美草根 加保与草根 紫草根 紫草
葉 都加利草 藪芹草 乃良衣草葉
之保禰草 水比之実 袁保波古草 女波自紀
草穂 小臭木根 岩阿也女根 宇多加草
根 止々岐草根 波自加美菜根 袁介良草根
與呂比草根 土古呂菜根 阿夫良草実
加良之菜実 由利草菜根 左宇毛草根 阿介
比加豆良 美都波草根 阿加禰草根 比
登豆波
木薬
松木 皮 葉 根 節 実 脂 塊 み
どり 此ハ常世薬なす
於加多末 根 皮 葉
榊木 根 皮 葉 ひこね
桂木 根 皮 葉
杉木 葉 根 皮 脂
桃木 実 核 脂 花
柿 実 核 実渋
加倍木 葉 実 小実
川流波美 根 核
榛木 根
椎之木 大実 中ら実 小実 これの実
皮 核 此ハ種々の山立ちなり
檜木 葉 皮 根
たまる木 実 根
禰須毛知木 実 根
柏木 葉 根
母知木 皮 根
接骨木 根 実
栴檀木 実 根 根皮
恵牟志木 実 根皮
山桃木 皮 根皮
蔓荊木 実 皮 根皮
也爾礼木 実 根皮 ひこね
五加木 葉 茎 根 ひこね
藤木 実 根皮 幹染
おおそゐ 根 皮 幹染
猿梨木 実 葉 根 ひこね
さゐかし木 実 実皮 根
桑木 葉 実 皮 根皮 ひこね 葉枝
核太木 実 実核 根皮
久美木 実 実核 ひこね
久知奈之木 実 実核 ひこね
杏木 核 実 花 ひこね
加良多知木 実 実核 根 根皮
美加久志木 実 実核 根
波自加美木 実 たわ 皮 根皮
桂木 根 皮 根皮 ひこね
辛夷木 花 根皮
樟木 実 根 皮 幹染 脂 ひこね
止禰利支木 皮 根
阿知末佐木 実 実核 根
猿頬木 皮 幹染 根皮
牟久介木 花 根 根皮
須久奈比古乃久須禰之木 根 実 幹染
根皮
佐久呂木 実 実皮 根 ひこね
土薬
とウす 此ハ土の火の気を取れるなり
こハ火の気 山の土を掘り取りて 其に水を
垂らし注ぎて その垂り水を火鑚り 滾
らし固めて成る
重練 こハ土と 木の葉枝と 草葉根と
木の実 草実と これの四の火の気を取れ
るなり そハ先づ 草木の葉 枝 根
実を取りて 眞日に晒し 乾かして また南
の山の上の土と岩鉱とを砕き 日晒しに
乾かし その乾かせる草根 木葉枝を叩き小
切りて 木の実を臼搗きて 小切り葉枝
を一延エに 夏雨の雨水を打ち掛け その
上に木の実を多々に撒き散らし その上
に乾土を上撒きに撒きかけて 斯く混せ掻き
を千打たして その上に然々を幾重に盛
り足らして 雨風の除けなして 七年経 尽
々に皆 土とならに そを取りて然々に
なさば 重練となる こを少とに喰わせよ
こハ身体 栄行く
またこれの重練りに 綿草の木の幹を黒
焼きになし粉なして これの重練りに全つ混
ぜ また秋のはやれにひとむき虫を取り 箱
入りに百か日に乾し固めて そを叩き粉なせ
これのひとむき虫を取らむ時 また粉なす
時に 必ずしもに 勿 息なしそ 息なさば
これの毒甚深ければ こに中らば死去ぬるな
り その息なさに と思わば 伊吹きを作れ
楮布に柿の渋汁を引き 一寸を小円になし
袋の底無しに長さ八尋なして それの口に
白銀を以て上口を拵エて 有らぬ方に虚吹か
してハ毒を避く 故 それの重練りと綿幹の
黒焼きとひとむき虫とを混ぜ和して その風
の風上に置きてたかわに火鑚りて それの口
に後向け渡して 速 疾くに風上に走して
間暫しありてハ それの重練り火となり 草
木も尽々に火上げて それの煙 皆 毒とな
り そに中らば 人も獣も這ウ虫も草も木も
風下に亘る物 一つも 生居る物有らじ
故 訓り伝てなせと 常世になせそ 天津罪
にぞある されど先津年並みの如に 外津世
人参イ来て荒びそば こを以て皆に皆に殺し
尽くせ と告りたまイき
-------------
39,15
-------------
先に天津御子の命 天津宮御子たち 高津
上たち 臣の上たち 共に 日下根の後の水
門ゆ船出まさむ とて 千斛船を立て並めて
船出ましき 然れど浪無く風無くて揺蕩ウ
故 天津御子の命 いと慨く思ほして告りた
まわく 吾が船人病もふか 躰弱か その子
無くて屈まる 故 船帰しよ 陸を往かに
と告りたまイき 此処 船子 語らき歌を歌
ウ 天津御子の命 いと美し 然れど船わ上
らず と 告りたまゑば 船子とも 皆 赤
裸となりて 千々の人 共に潮の早瀬を被き
て 小船多々に添ゆ 六身の眞綱打ち掛けて
夫々の小船に跨げに櫓櫂を立ち並め 皆
口々に櫓櫂の競り声を放ちて言挙げなす 楫
取りひとかさ 丹生棹彦 餞人となり 赤棹
彦郎 白棹彦郎 黒棹彦郎 手之棹彦郎 差
棹彦郎 これの楫取りの長たち 皆 赤裸に
頭に白布の後結ゐの鉢巻きを締めて 潮浴
み隨に楮布に裂れる棹付けの垂り織りを振り
て歌イけらく
御世 榊 現人 袁賀玉
桂 松 千歳経る鶴
萬世経る亀 勤し櫂立て
よやえヤ よやえ
と歌イ踊りて 簀板ウ踏み鳴らし 櫂打ち
櫓を繰り ざざ声揃エて急き立て歓かしき
ここに天津御子の命 宮御子 臣の上たち
共にいと面白と言 皆も歌わしたまイて
勇ましく潔くこそあれ これの宮船還り上ら
せたまウと聞こゑて 丹波 吉備津根 出雲
大宜都 穴門 愛媛 飯依 建依 小島々
々 これの国々 島々ゆ 皆 宮船に仕ゑま
つらにと云て 小船に幡立て火屋掛け 鉾出
しを挙げて 大銅鑼 小銅鑼を打ち 伏す板
を叩き 弥声を放ちて 高音を上げて 皆
宮船八隻に綱打ち延エて 勤し櫓櫂に海水を
分かちて 御船弓の矢如す 故 昼夜分かで
勤しみなすからに 速くに速吸の丹生の水門
に泊たしたまイき
-------------
39,16
-------------
ここに国の覇精高の上 海之部彦の命 妹
海姫の命 御子 棹掻きの長 速吸のさな
はらに輿乗りの宮代を建て 奥津辺に門代を
建てて大御饗エ献る 故 天津御子の命告り
たまわく これの御饗エハいと栄にあり と
告りたまイき 故 こを以て其処を佐賀 と
云 ここゆ天津御子の命 御輿に召さしたま
イ 次に宮御子たちハ駒召しにうたしたまイ
高津上たち 臣の上たちも 皆 御馬に打
たしたまゐて 高千穂の大宮に還り上りまさ
に と 御越し出まして 大野川の川尻のい
きの河原に憩わせたまイき
-------------
39,17
-------------
ここに天津御子の命 いと御嘆きたまイて
告りたまわく これの国内ハ国の煩ゐて皆に
病もウ と止めさしたまゐて 御輿降らせた
まイき 故 ここに皆畏みき 故 日高狭野
の命 大久米の命 中臣道之臣人の命 太玉
大富の命 弥都波若菱守の命 並べに宮御子
臣たち 皆馬ゆ降りて 神の御心辺 弥そ
も と云て畏みき ここに中臣の命 斎部の
命 進び出て 八平手に蹲みて 称エ言申す
如何なれヤ 天津日之御子の命ヤ 陸道に
立たせたまウぞ こハ現しき青人草を神乍ら
に御助けまして 東の国に遙々に渡らせたま
イ 今 宮還りに上り着かせたまウ 晴々に
宮入りたまイてこそ潔けれ 然無くて陸道を
一人御往きまさば 現人如何に苦しみに落ち
て 嘆きとなりぬべら と云 天津御子の命
告りたまわく これの国ハ家有れど人無し
人有れども口無し 故 吾ハ国内穏びで貧し
く病もウ とこそ思イつれ ここに高津上た
ち 然々を告りたまイき 故 諸人幾らかに
女 童 また翁 嫗も皆に参イ出て歌イ歓ぎ
幡立て火焚き 笛吹き音銅鑼打ちて勤し出
来
-------------
39,18
-------------
ここに天津御子の命ハ甚く御喜ばしたまイ
て 御輿に召さしたまイき 故 現人参イ来
て 高音をさして御輿を舁きき ここに船の
楫取りの男 丹生棹彦郎 赤棹彦郎 白棹彦
郎 黒棹彦郎 手之棹彦郎 差棹彦郎参イ来
て 棹垂りの布垂でを振りてささめかすに
青人草 皆 清らけき勇ましを挙げて 御輿
を舁きて赤裸になりて これのいとも太く早
瀬なす大川に走し入り 御輿を眞の上高に差
して高音をうどましき これ時に馬召しの上
たちも共に その川に飛入りてまくろげに川
道知るに 陸路を走すより 安らかに向岸に
渡り上がらせたまウに 向岸の現人千萬参イ
来て 皆川水に身濯きて それが随に御輿屋
を舁き また 召し馬の口取り 足たき 揺
り腰なして 高音を上げ 幡立て 鼓打ち
笛吹き 鼓打ちて 祝ゐ寄す千萬の現人を押
し分けに ざむざを歌イ歓きて 御宝の大宮
に御輿入りたまイき 故 天津御子の命 然
も潔し と言て いと御喜びたまイて 現人
皆に御酒と肴とを賜イき ここに翌る明日の
日ハなよなの月円日の四か日にぞありける
暁時の朝開きに国内の現人 野山に火篝なし
て 法螺吹き 笛吹き 大音銅鑼 小音銅鑼
を打ち 幡立て 伊吹きを吹かせて参イ来て
御供に仕ゑまつる 直入ゆ越しつる現人
御輿屋を舁き往かに と云 また大分ゆ参
イ出る現人 御輿屋を舁き往かに と云て
相争ゐて暫し止まざりけり 故 活玉神井の
命 天之羽槌鳴志別の命 これの二柱の上立
たせたまイて言別けたまわく これの大分の
国内ハ大分の国人勤なせ また直入の国内ハ
直入の国人勤なせ と告り言ちたまイき
故 直らゐて勤労く
-------------
39,19
-------------
ここに御輿屋眞先に立ちて御供ふる現人あ
り そハ御齢負エる翁の逸り男を背負ゐて
御先辺に進み山坂を越すに平道を走す如なす
故 日高狭野の命 そを見そなわしたまイ
て 憩わせの時に召さして言問わしたまわく
汝ハ何処の現人 と言 御答エ申しけらく
奴ハ直入の北の国に経る現し人 と申す
汝の御齢ハ幾つぞ と問わしたまエハ 奴が
御齢ハ百二十四 と申しき また汝が背負ぶ
男を前なせ 故 男参イ到る 汝が御齢ハ幾
つにかある 御答エまをしけらく 奴ハ御齢
ハ二十二 と申す こに日高狭野の命告りた
まわく 背負イたる翁ハ汝が為にハ何そもヤ
と言 奴が為にハ曾祖父 と言 命 面火
照らして告りたまわく 汝が御祖を負イてこ
そ往ね そに代ゑて 逸りにある男 栄男に
背負われつるこそ転てなれ 汝ハ悪き長なり
と告りたまイき ここにそれの邑の受家男
参イ出て申す こハ奴が罪ならじ 栄男が罪
なり そハ これの曾孫ハ これの栄男 孫
曾孫多なす中に これの逸り男のみいとも
愛で慈しみなす 故 その逸り男も これの
曾祖父を朝夕べに 常となに斎きて足しぬ
故 物ぶるにも曾祖父の心当ての隨になす
こによりて然こそなしつらめ と言 故 日
高狭野の命 また栄男を召さしたまイ告りた
まわく 汝翁よ 汝ハ何以て多の子 孫子孫
曾孫に教うウるぞ と問わせたまエば 栄
男御答エけらく 奴 神の御心受けたり そ
を以て教うる と申しき ここに日高狭野の
命 御心に甚愛じく思ほしたまイて告りたま
わく 汝 斯く教うるからに家内穏び栄エて
富めり 故 今ゆ後ハ 吾が師となりて 天
の下の事ともを尽々に訓り伝てなしてよ と
告りたまイて すなはちこれの栄男に 天下
支宇の命と云御名を下したまゐき また こ
れの事を顕わせし受家男に くきうぬの長と
云御名を賜イき また これの栄男の子 孫
孫子 曾孫に 皆に愛 賞めたまイき

-------------
39,20
-------------
ここに天津御子の命の御輿屋に直入の宮を
御越し出ましき 故 国の現人家にハ 各も
各もに清御門代を立て並めて 餅搗き 赤飯
を蒸して 宮し還りの祝ぎを 家毎になして
祝ゐまつりき また 高千穂の二上りの大宮
にハ 門代を朱らかし 清御門代を立て 前
に榊 於賀玉 桂を植ゑて 小枝 木末に楮
布の垂でを着け また 豊幡を幾らに立て並
め 伊吹き幡 中ら幡 穂竿 流し幡 八雲
幡を立て連ね 四柱の高物見を山の頂に立て
て 所々に鼓以て御越しの車を知らさしめき
また 殿所の眞前にハ 二つ 四つ 六つ
八つの飾り弓矢を立て また 一つ 三つ
五つ 七つ 九つの飾り太刀を立て また
楮布に裂れる大和幣 小和幣を幾らなし
また 一つ 三つ 五つ 七つ 九つの飾り
鏡を立て また 二つ 四つ 六つ 八つの
飾り白鳶を立て また 二つ 四つ 六つ
八つの飾り火屋を竿立て 神招ぎをなし ま
た 宮御子たち 臣の上たち 御妃の命 向
妻の命 御姫の命たち 共に 御宅に目迎ゐ
まつらに と 各も各もに装イたまゐ 男の
頭毛ハ 油垂らし掛けし髻に結ゐ垂らして
冠を召さし 御手にハ貴玉を持たし 太刀を
佩かし 御衣ハ袂と袖とを太垂れ 上掛けに
皆 薄火丹衽を着さしの上に黒襲を取り掛
けり また少女の頭毛ハ 油掛け統べし髻に
結ゐ垂らし 髪挿しを高なし 御手にハ檜の
扇を持たし 御衣ハ巻麻十二枚の着飾り 火
丹色の御袴を長垂らし 袂袖を引かし 薄蚕
布の白衽 打ち掛け 紫色の襲を巻かしたま
イき 故 然装イて 道饗エの物種々なして
高千穂の極みなる三宅の山野に出立ちたま
イき 斯くて天津御子の命 宮御子たち 臣
の上たち 共に清々しく勇み進びたまイて
上伴の長を率かして 高千穂の二上りの宮に
御越し入りまつり 宮御子の命たちも宮還り
臣の上たち 御己らの家に還り入らせたま
イき
上津文 三十九の綴り 完エ

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40,1
-------------
上津文 四十綴り
ここに天津日嗣 日高日子波限建鵜葺草葺
不合 七十二代彦の命 産御名ハ海津日子五
瀬の命 隠りながらに天の下を知ろしめさし
たまイき これの日嗣の御子代の天津日嗣後
持の上 七十代の天津御子の命の三男の宮御
子 高見香具山の命 またの御名ハ高倉下の
命 任き知りたまイて 迅くに五年になりた
まイき ここに高倉下の命 先つ天津御子七
十一代の命に告り挙げ称エ言申したまイき
吾ハこれ七十二代の天津御子の命の御子代の
天津後持の上となりて 頓に五年経にき こ
ハ天の下の現しき青人草の為に禮無し 故
迅く迅くに天津日嗣の御子に 天の下知ろし
めさしたまゑ と申す 故 天津御子の命告
りたまイつらく 吾も然に思イつれど 其が
齢未し と告りたまイき 高倉下の命 また
申しけらく 日嗣の御子ハおてつくに五十間
近きなり と云 吾が日嗣知らすに 五十後
なさで国知りたまエるみこしあらず そハ去
にし世の理ならず 故 良わず と云 後持
ちの上 重ね称エ言申しけらく そハ天津神
言の隨に 日嗣御子の大功しを御齢以て賞め
たまイて 代々足したまゑ と申す
-------------
40,2
-------------
ここに先津七十一代の天津御子の命 日高
狭野の命を賞めたまイ 御齢 三つを賜ゐき
日経に厳しの足らし日に 七十一代の天津
御子の命 後持ちの上 高倉下の命を率て
天津高御座に天津日嗣の御印の 三つの御宝
を捧げまつりて 日高日子波限建鵜葺草葺不
合 七十三代彦の命 産御名ハ日高狭野の命
に 天の下を知ろしめさしたまイき 故 日
嗣の禮事 去にし世の如然々に 臣たち 国
内の現人 皆 祝きまつる 然々 今年 天
津御子の命 賞め齢を三つ重ねたまウからに
大御齢五十一 去にし世の天津神訓りの隨
に 天の下の君に立たせたまイて 三年経た
まイき
-------------
40,3
-------------
ここに天津御子の命 国廻まさむ と 臣
の上たちに言伝てて 御装ゐたまイき 然れ
ど今年のけさりに 春雨の頻き並み 降り続
き来て 川々の水嵩高に御越し出も然得ずで
あり 故 ここに中臣春武の命 中臣道之臣
人の命 斎部差別の命 太玉大富の命 科津
靱之男の命 弥都波若菱守の命 手力佐韋花
の命 これの七柱の命たちハ 天の太占に仕
ゑまつりて 臣の上たちに賀楽をなさしめて
天津祝詞の太宣り言に仕エまつらしめたま
イき 故 ここに七十代の天津御子の命の御
妾 玉敷姫の命に神懸りまします 故 天津
御子の命 高津上たち 共に御驚かしたまイ
て 迅くに玉敷姫の命を高床の上に招きまつ
り坐せまつりて 神の大御言を祷き祝さきた
まウ こハ天の避立ち国の避立ち 汝 天の
下を知らば 国の眞方なる秋津避 日下避に
宮造り居れ と 告りたまイて 神上がりま
したまイき これの天の避立ち 国の避立ち
と申すハ 鹿具島の文に言らく 天の常立の
命 国の常立の命 これの大御神の御名なる
べら と 皆人も言とあり ここに天津御子
の命 先の天津御子の命に玉敷姫の命に神懸
りまして 然々を申したまイき 故 先の天
津御子の命告りたまわく こハ天津大神の御
賜物にこそあれ 故 暫しも弛るみ怠るべウ
ならじ 明日ゆ そに立たせよ と 告り
たまイき ここに天津御子の命 高津神たち
迅く迅くに 大土斎差男の命 都夫多都幸
咲の命 底度久白藤の命 三柱の上たちを召
さしたまイて 然々を告らしたまエば 三柱
の上御答エ申しけらく 美し宮処を替ゑたま
ゑる 故 その所の吉所に奴々迎つきまつら
に とまをす
-------------
40,4
-------------
ここに五日の国の青人草 然々に 宮処替
ゑますと聞こエて 老翁も童も皆人泣きつつ
参イ来て 御袂に縋りて惜みなす 故 天津
御子の命告りたまイつらく これの宮処替ゑ
ハ吾が御心ならず こハ天津大神の御賜物に
しあれば黙も有らず 故 吾が御身代と云て
神八井耳の命をこれの宮に残し居さす 故
吾を斎くが如く斎きてよ と 告りたまイ
き ここに速吸の丹生の水門に 大船小船幾
らかに 楫取りの長人 椎根津彦の命 御子
赤棹彦 白棹彦 黒棹彦 手之棹彦 差棹
彦 これの楫取りの長たちハ 御船を立て並
め装イき
-------------
40,5
-------------
ここに先の天津御子の命 天津御子の命
御妃 向妻 また姫御子たち 宮御子の上た
ち 姫たち 高津上の上たち 姫たち 八百
萬の臣の上たち 八百萬の姫たち皆御船に召
さしたまイて船出まさにとする時に 五日の
浦辺々々ゆ 大船小船尽々に幡立て 鼓を鳴
らし 歌を歌イ 高音を上け 夜火屋を差し
またハ火焚きて 千々萬の船 都替ゑの祝
きに御送りまつらに と云て 参イ来て 各
も船ゆ御綱投げ懸けて其に繋く打たし 船多
々に速吸の灘船原となりぬ そこを愛媛の国
々島々聞きて 浦辺々々ゆ千萬の大船小船
また北の国々島々ゆ然々に 皆大宮船の曳く
手として漕ぎ勤なすに 速吸門ゆ はやれの
月立の二か日の朝開きに漕ぎ出まして 五か
日の黄昏に浪速の門に泊たしたまイき

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40,6
-------------
故 座摩の宮に宿らせたまイ そゆ日下根
の現人参イ来て 御輿を舁き 歌イ歓き 大
音銅鑼小音銅鑼を打ち 高音なして 勇まし
くそ生駒山の上に舁き上げまつりて 孔々舎
衛の坂本に憩わせたまイ そこゆ葛野の宮に
在座ましたまゐて 吉野山に大宮柱太敷き立
て 高天之原に氷木高知らして 先の天津御
子の命の宮隠りの大宮と定めたまイ また
日下根の竈山に宮柱太敷き立てて 七十二代
の天津御子の命の神の隠りの宮と斎き立てた
まイき
-------------
40,7
-------------
また畝傍山の東南の隅なる橿原のところに
田萱以て葺ける片削ぎの土立て屋を作りて
御親からに在座たまゐて 大久米の命ハ畝
傍川の西辺に作らせ 高倉下の命の宮ハ 日
下根の竈山の南辺に作らせ 高津上たちハ葛
野に作らせ また臣の上たちハこれの畔の所
々に御殿を作らせたまイき ここに饒速日の
命の御裔 宇麻志眞手の命を秋津根の建とな
し 高倉下の命を日下根の建となし 珍彦の
命を大和の国主となし 弟猾男 弟磯城黒速
これの二人を猛田刀自 磯城刀自となした
まイき ここに天津御子の命の御名ハ 日高
日子波限建鵜葺草葺不合 七十三代彦の命
産御名ハ日高狭野の命 天の下知ろしめさし
たまゐて これの所に宮所遷したまイて 更
に天津神 国津神 日嗣の御祖の大神たちを
斎ゐまつらに と云て これの榛原の小野に
大宮柱太敷き立てて 斎ゐ祀りて 直ちに日
子八井耳の命を斎きの宮主と定めたまイき
故 天津御子の命 天津大神の御諭しの隨に
大御名を改めさせて 天邇芸志国邇芸志天
津日高日子波限建神大和磐余彦火火出見の命
と 申す
-------------
40,8
-------------
ここに狭依科の建の使主人 荒城の三郎
これの狭依科の阿曇の現人釜石八郎を 蔓縄
以て括して参イ来て これの奴 夜に人の家
に忍びて その宝物を奪ゐて その人を殺し
てことぶる 故 括し参イ来て申す と云
故 臣の上たち それの朋輩有りヤ と云
友垣一人も無し と云 ここに天津御子の命
甚く嘆かしたまイて 奴を殺すに忍びず
と云て その 左右の眼を抜かしめて 宮内
に育みて賎しき醜女を婚わせて 子取り男と
なせ と 告りたまイき

-------------
40,9
-------------
ここに天津御子の命 国の青人草齡を長き
に益さに また国足し益さに とウて更に高
津上たちを集ゑたまイき 故 中臣春武の命
中臣道之臣人の命 斎部差別の命 太玉大
富の命 表春楮緒玉の命 思金村立の命 側
禰座掛の命 息長搗隅の命 弥都波菱形の命
埴安種活の命 燿火町部の命 天懸戸切の
命 国懸魂迎の命 金山瀬之隈の命 これの
上たちに告りたまわく 吾ハ国の国々 島の
島々の現しき青人草の幸わゐを足しなさに
と思ゐたりき 故 高津上たちハ如何状ヤ
と 問わしたまイき 故 高津上たち御答エ
まをしけらく 宜べ 去にし世の訓り伝てハ
何どなる と 申しき 天津御子の命 去に
し世の訓り以てこそ穏びけれ 故 幾千 幾
萬々の現しき男の子の家業勤労きつるもの
それのさが心 さがず心も 皆押し並めて
己が厳祝ぎを思わなきばあらじ 故 一人毎
に其を助けて 現世に全ふる人 尽々に其の
厳祝ぎなさしめて 安国の穏び国の楽し世と
栄わゐなさに と 告りたまゐき ここに高
津臣の上たち八平手に畏こみ拝みまつる

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40,10
-------------
故 天津御子の命 訓り伝て告りたまイつ
らく 五臣の上たちの御座置きの厳祝きに
厳上 並上の其の家の長ハ 御齢五十ゆ 其
に仕ゑて 六十ゆ清津上となれ 七十ゆ明津
上となれ 八十ゆ高津上となれ 五十までに
家業 物之部術を訓らし 勤労ぎて事為せ
と 告りたまイき また清津上のその家の主
ハ 五十ゆそに仕ゑよ 六十ゆ明津上となれ
七十ゆ高津上となれ 五十までに然々なせ
また明津上の其の家の長ハ 四十ゆ清津上
となれ 五十ゆ其に仕ゑよ 六十ゆ高津上と
なれ 五十までに然々なせ また高津上の其
の家の長ハ 四十ゆ明津上となれ 五十ゆ其
に仕ゑよ 七十ゆ天津日嗣の後持ちの上とな
れ 五十までに然々なせ また吾が日嗣の御
子ハ四十ゆ高津上となれ 五十ゆ天津日嗣を
知ろしめして 大御田族緒の幸わゐを守りて
みみの心の隨になせ 其 皆 去にし世の
大御祖の訓り伝でに 必ず 勿 違イそ 五
十までに然々事に為せ 吾が宮御子たち 四
十ゆ清津上となれ 五十ゆ明津上となれ 六
十ゆ高津上となれ 五十までに然々事になせ
また現しき青人草の御座置きの厳祝ぎに
五十ゆ村主となせ 六十ゆ刀自となせ 七十
ゆ郷主となせ 八十ゆ国主となせ 九十ゆ厳
上 並上となせ 五十までに家業事なせて
物之部術を勤労ぎて 外津世人参イ来て悪じ
なさば 皆走し出て殺せ と 告りたまイき
ここにまた天津御子の命 大御田族ハいと
も畏く 去にし世の訓り伝てを勤しみ それ
の季節の暑さ寒さを凌きて 勤労きて 十よ
の種津物を作り出て 現しき青人草の喰イて
生くべき物成すからに 現し人の上の長にな
もあり
-------------
40,11
-------------
故 これの大御田族 助け道を理りなさに
と云て 更に業道を分かちたまイき 工人
の堅磐に習ウ者ハ工人となして 現人の家建
てて勤労け 全べ木以て作れるを知れ 鍛冶
人ハ大御田族の用てつく道 剣 太刀 鉾
鉈 鍬 鋤 斧 鎌 掘串 垂穂 全べ金物
以て作れるを知れ また商人ハ 大御田族の
作れる物多なるを 少となるに窮く物ハ 有
る所ゆ取り来て用ちなす 故 百が一持て食
エ また布人ハ蚕飼ゐ 麻作り 狭綿作り
糸紡き多々なせ また【海漁人ハ全べ 海原
に勤労ぐを言】 また味塩取り 船乗り人
網引く人 釣り人 皆 勤労げ また山狩り
人ハ木倒し 板取り 金取り 薬掘り 毛物
禍殺し 勤労げ これの現人 皆に皆に 業
外に物之部術を神訓りなせよ また童ゆ力招
きハ 勿 忘れそ また物人ハ物之部の術を
尽くして 牛と馬との牧山に勤労ぎて気壯な
せ また外津世の奸る禍物参イ来ば 眞先に
走して殺せ 食ハ秀倉幸以て食ゑ これの道
を定めたまイて また生れ乍らに盲イの男女
ハ 近方ハ宮内に育みて 業ハ辺りに勤労が
して 子取り男 子取り女となさせ 其の子
御齢十五にならハ 己 好める家業に師を
取らして そこに 十年学ばせて 二十五と
ならば家作りて そに住ましめて家業なさせ
て 父母未た現し在らば そを養ませよ ま
た父母疾く罷りてあらば それの十五ゆ後な
らば 家入りの師を取りて 二十五ゆ 其の
家に還して業なさせ 十五ゆ前ならば 宮内
に育め 故 遠方ハ国々の建の攘ら屋に斯く
なせ と 告りたまイき
-------------
40,12
-------------
全べ現人 御齢十つゆ家業に就かせ 十五
ゆ家入りの師を取り 二十五ゆ還りて家業な
せ 三十ゆ其の家を守れ また男ハ二十五に
女子迎かなし 女ハ二十つに男子迎かなせ
家入りの師の許に御族屯りて勤労ぎ道を学び
なすから 隠り心奸りハ師窘め そを仇ふら
ばいらゑ 故 師イらゑば父母の家に勿入れ
そ 外津世に逐イて 国内に在らハ 其所の
建捕らゑて 足断ちなして 手なりをさくじ
りて子取り男となせ 女も然々に斯く為せ
現人尽々に及きなりて憩エ 必すしもに業術
有らぬ現人ハ任に択らエず また男無き女の
五十後ハ それの邑の女道の師となる 男無
き女の五十前津辺の若女ハ 子取り女となせ
て 其れ邑に養め また男女共に御齢若くで
病體なすハ 宮内に育みて薬人の飼ゑる猿飼
ゐとなして 薬自人の道を学びなさせて 五
十歳越ゑば薬自の首人となせ また盲 唖ハ
薬自首の家子となして 人の御躰を撫で熟づ
て 病イ晴らし また天津大神の御教エの如
に 御躰の病イのもよらしに 黄金の秀串差
し道を学びなさせて 三十ゆ体撫で 四十ゆ
串刺しをなせ 眞隠らの汚病イハ皆尽々に宮
内に養みて 薬自首 そを懇ろに癒して猿飼
イ人となせ (省略)
-------------
40,13
-------------
故 手置秋虫の命を丹波の建となし 天熊
押別の命を吉備津根の建となし 村雲長小田
の命を出雲の建となし 楫立橋男の命を穴門
の建となし 日鷲斬木彦の命を日下根の建と
なし 御鉾座玉の命を白日の建となし 木之
俣冴長の命を豊日の建となし 甕土玉猛の命
を速日の建となし 大雷棚河の命を奇日の建
となし 高淤迦美姫合の命を建日の建となし
経津鉢滝の命を愛媛の建となし 岩柝天之
栄屋の命を飯依の建となし 武市棚別の命を
建依の建となし 八衢熊川の命を大宜都の建
となし 天之羽槌船屋の命を淡海の建となし
事勝国毘の命を伊勢津の建となし 飽咋眞
幸の命を狭依科の建となし 白羽鳥羽の命を
遠津海の建となし 御鉾海辺の命を无邪津海
の建となし 長道八百道の命を野陸の建とな
し 沫那芸朝立の命を常陸の建となし 明玉
弓弦の命を陸奥の建となし 枳値可佐美の命
を越根の建となし 萱野夜鳴彦の命を双子の
建となし 屋船若鷹の命を狭手依の建となし
清之御科の命を蝦夷建となし 天之狭霧鳥
飼の命を忍許呂建となし 香具山狭鳥の命を
一津柱の建となし これの翁主の臣の上たち
を国々の建となして 現人の翁主の任を事依
ざしまつりき
-------------
40,14
-------------
故 国々に天津大神 国津大神 家の御祖
の神 年の毎の春秋の二季に祭らしめて 年
乞イ新嘗を斎イまつらして 現人並べて賀楽
に仕ゑて 清らけく潔く 昼ハ幡立て夜火焚
き 馬駆け 舞イ猿 種々の勤し事を称ゑま
つれ と 告りたまイき また国の国々 島
の島々の 家毎々に月の毎以て然祭りませ
そハ去にし世の訓り伝ての如に斎き祝ゐなせ
これの祭りハ長生なす呪訓りになもありき
故 むつび月ハ 昼の長さ八時 夜の長さ
十時 むつび月の初めの日に 家毎家毎に清
御門代を立て 白飯の餅を搗き 太鏡玉を幾
の重に斎イ飾り 鰭の大海魚 鰭の小海魚
沖津藻菜 辺津藻菜 清菜 根太清白 根太
芹菜 沢孫根 父小菜長き根 母小菜長き根
伯父小菜栄葉 伯母小菜栄葉を 家内を大
床辺に飾りて 家の場の垣外に 尻組め縄を
渡して 新年の祝き事を招きまつるに 眞夜
後に起き立ちて 御禊湯を立てて 御身を濯
ぎて 垢無し衣を着て 潮以ち家内祓イて
去にし世の神訓りの隨に 禮事に仕エまつり
て 吾が遠津御祖の神 天照大御神 夜見照
大御神 国照大御神 東の十八の御殿の 其
内の六の御殿に御立たしたまウを招き祭りて
清らけく 潔らけく 国津 魂津君饗ゑに
仕エまつれ 故 朝開きの斎ゐの御膳に供を
る物ハ 飯秀瓦に未醤のふくさ料に飯餅を煮
込み 藻菜 海魚も一並めに煮作しまつる
次に御酒と肴とを奉る 次に木立て湯を奉る
次に松木置きをまつる こに供ウる物ハ椎
の実 干梅実 藻菜穂俵 若藻 小椎実 栢
実 柿実 次に八百稲置きをまつる こに供
ウる物ハ餅栗 菜餅 たち豆実 玉粟置きに
黄な餅盛りまつり 豆穂置きに白餅以て奉る
次に淤賀玉置きに鰭の広干海魚 榊置きに
鰭の中干海魚 桂置きに鰭の狭き干海魚 梅
の花置きに盛れる物ハ 火丹色 黄色 白色
の和妙 また 始め草花置きに盛れる物ハ
空色 黒色 青色 赤色 青磁色の綿布荒妙
また 水撒き草花置きに盛れる物ハ 紐帯
いし帯 平帯 丸帯 垂帯 八島置きに盛
れる物ハ 絹掛けの戦衣 弓袋弓 飾り弓袋
弓 靱袋靱 飾り靱袋 太刀袋太刀 飾り太
刀袋 かぢたれ袋 かぢたれかぢたれ置き
次に新飯の御饗エに供ふる物ハ 眞中辺の御
膳に供ふる物ハ 左の前津に飯秀瓦 右の前
津に蒸入秀瓦 左の先津に羮秀瓦 右の先津
に生酢平瓮 右の脇津膳に左前に料秀瓦 右
前に垂秀瓦 左と右との先津に立平瓮 並瓮
並秀瓦 左の脇津膳に右と左との前津辺に
料秀瓦 右と左との先津物に秀瓦二つ 平瓮
二つ 皆 去にし世の禮事の隨に 次もまた
然 木立湯 果物 餡 飴 甘料凝り 濁
酒 清酒 神酒 肴弥座置きに かち藻 大
藻 かち魚 太魚 明津日 始めの日 然々
に 天津神を斎き祭るの日並め 厳し日 昨
日の如 然々 国津神を祭る 四か日 皇ら
御睦の神を祭る 然々 五か日 臣の御睦の
神を祭る 然々 六か日 覇精高の神を祭る
七か日 賀楽の季道饗 八か日 馬駆けの
季道饗 九か日【宮内の追儺逐エ これの夜
さりに 大豆以 四方逐イなす 故 年の鬼
入らじ】と云 十か日に 其の家の遠津御祖
の神を祭り 十一か日に中津御祖の神を祭り
十二か日に近津御祖の神を祭れ 十五か日
その家床を祭り 十六か日に国の建を祭り
建ハ国の現人を祭れ 二十か日にハ 吾が
大御庭に立ちて 現しき青人草の活道眞栄の
産子多なす 楽し御代の祝さきを祭る 故
国建 国勤なせ 月の毎の季合ゑハ けさり
月ハ 昼の長さ九時 夜の長さ九時 二か日
に天津神 国津神 家の祖神を祭れ 故 家
軒に桂木 桃花を込み差して 清まり門なし
て 御饗膳然々に 蓬餅を奉りて斎きまつ
りて 床並の上に禮事以て祝ゐまつれ いや
よ月ハ 昼の長さ十時 夜の長さ八時 故
三か日に然祭り御饗然々 母子搗ち餅 桜柳
の木差し然々 うたゑ月ハ昼の長さ十一時
夜の長さ七時 五か日に然祭り 御饗然々
桜葉餅 瑞葉 卯の花の木差し然々 さなゑ
月ハ 昼の長さ十二時 夜の長さ六時 五か
日に然祭り 御饗然々 奴利弖 菖蒲花の木
差し 茅草餅以て 然々 みなつ月ハ 昼の
長さ十一時 夜の長さ七時 六か日に然祭り
御饗然々 平葉餅 柊葉 かに花の木差し
然々 ふくみ月ハ昼ハ長さ八時 夜の長さ十
時 故 七か日を中に置きて 六か日と八か
日とこれの三日以て 家毎の女の祭りの節合
となせ 故 八百稲置き か麦置き 玉粟置
き これの三つの置き物に供ウる物ハ 牛蒡
葉 たちわ葉 花豆枝 玉菜根 もろて花
八豆花 太海魚 小海魚 藻菜 老藻 次に
榊置き 淤賀玉置き 桂置き 松木置き 檜
の木置き これの五置きに供ウる物ハ 蚕布
の和栲ハ八百摺り 紫色 火丹色 白色 黒
色 花色 空色なり綿布の粗和し栲ハ 縦条
横条 条霞 山織り くま織り 種々色
麻布の荒栲 和し栲 濃色 白晒し 栲布の
荒栲 楮布の和栲 繭蚕の綿こ 麻扱ぎ布
草綿ふきこ 栲の裂き布 繭蚕の糸校 麻の
緒校 綿の紡枷 栲の緒枷 蚕布の糸巻き
八枠 麻布の糸巻き八枠 綿布の糸巻き 八
枠 栲布の糸巻き 八枠 黄金の縫ゐ針 千
本 白銀の縫ゐ針 千本 眞金の滕り針 千
本 白銀の指しはかり 百本 黄金の型押し
百本 提げ紐 千垂れ 海魚切る小鉈 幾
つ 野菜切る小鉈 幾つ 布截つ小鉈 幾つ
これの物を作り供エて 六か日ゆ七か日ハ
祭り 故 知佐 柿 楓 黐差し 桑餅と棊
子麺とを饗ゑまつり 六か日の夜ハ 老女
若女も皆 統べし元取りて 百か日花を插頭
となして 歌イて 三弦の高琴を膝伏し奏で
て 神楽をなして斎きまつり 故 七か日ハ
當日にしあれば 禮事に仕エまつれ 八か日
も然々に はやれ月ハ 昼の長さ九時 夜の
長さ九時あり 八か日に然祭り御饗然々 稲
葉餅 鼠梓木 萩の花門の柱 添ゑ立ちて斎
きまつれ なよな月の昼の長さ八時 夜の長
さ十時 九か日に然祭り御饗然々 かき餅
蔓木 莎草津花 然々 かなめ月の昼の長さ
七時 夜の長さ十一時 十か日に然祭り 御
饗然々 新たに成れる豊種津物以て 飯炊き
餅搗き 酒醸みまつれ 堅磐木を柱立て然
々 しふる月の昼の長さ六時 夜の長さ十二
時 十二か日に然祭り 御饗然々 新たに成
れる玉粟餅 柏木 山椿然々 しはつ月の昼
の長さ七時 夜の長さ十一時 十二か日に然
祭り御饗然々 赤稲餅 風見木 さば花 然
々 故 男女共に皆 禮衣を着て 禮を尽く
して 親族 家族の家の祭りに 禮以でて饗
なせ 禮足し修せ と 告りたまイき

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40,15
-------------
ここに天津御子の命 御思イ悩みたまイて
高津上たちを召さしたまイて告りたまイつ
らく 吾が天の下を知らすに 一つの悩まし
く思イて 成し完エ難き節あり 如何に助け
まほし と 告りたまイき 故 中臣道之臣
人の命 斎部指別の命 思金村立の命 如何
なる心遣りに候ウヤ と 申す 吾が思イ病
みハ 天の下の現しき青人草の為に病イ悩み
或ハ女家なし 或ハ童家なし 或ハ老家な
し 或ハ不具家なす 故 これの者ハいと業
難にある 鋤鍬不用して 其の種津甚痩地と
なりて 豊年なれど熟実登らで いと苦し世
なさに 故 こを助けて安世なす術無み弁別
めず と 嘆きたまイき ここに三柱の高津
上御答ゑ申しけらく こハ眞に忠誠だちにこ
そあれ それの便めハ物人の村主を其の首と
なして 物人を伴ねて邑毎の月の毎に遣りて
季遅れなすを耕さし種蒔かし また草刈ら
し土返し また肥撒かしなさせ在さば 季離
しなす者あらで 皆一並めに八束穂まさにと
申す
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40,16
-------------
ここに天津御子の命 嘆き告りたまイつら
く 今 吾 国の国々 島の島々の穂倉を見
聞くに いと増えて 国人の荷前いと増え
て 穂倉足らでぬばエぬ 故 良わず 国人
の荷前斯く増えてハ 青人草皆貧しくなりて
憂さ世とならに 吾も臣たちも 皆 大進
田 小進田を作れば事足りき 斯く在るに
現しき大御田族 忠誠だちて 吾を斎くこそ
美役なれ 然あれど其を受けば 吾が天津罪
国津罪 御祖神たちの罪なり そを受けず
てハ大御田族のたしなすを悖るの吾が罪にぞ
ある 故 此を以 国々の建に言問イて そ
れの規を定めにと 高津上たちを召さしたま
イて告りたまわく 現しき青人草の幣の規ハ
先ず老イも童も 少男も少女も込めて 一
人一人に諸種津実一升となし 月の毎に家内
十人なさば十人の計り以て 此を以て一年を
推して計りて 一年の食物何程と貯ゑ また
其の数程を取りて 此ハ一年の異しき種々の
物料と貯ゑ またその数程を取りて 此ハ明
年のもしもに稔らぬ備エとなすべし これの
御調を備エ置きて 其の余りあらば 其の三
つの一つを荷前なさせ 御調に並める物ハ必
ずしも 勿荷前なさせそ また御調に足り
せぬ者ハ 国の穂倉ゆ足らせよ と 告りた
まイき 故 国の国々 島の島々 いとも幸
き栄ゑて 去にし世の如に安らけく 清らけ
く 歌イ舞ゐ 楽し世なす
上津文 四十綴り 完エ

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41,1
-------------
ここに、天津御子の命(あまつみこのみこと)は、
鳥見山(とりみやま)の 上津榛原(かみつはりばら) の小野(おの)に
壮大な 大宮 を建てることを決めました。

まず、
大宮柱 をしっかりと 太く敷き立て、
その上に 高御屋根(たかみやね) を
何層にも 檜皮(ひわだ) を重ねて厚く葺(ふ)きました。

そして、
屋根の上には 千木(ちぎ) を掲げ、
氷木(ひぎ)を飾り、
堅魚木(かつおぎ) を幾重にも重ねて、
堂々とした美しい社殿(しゃでん)を築きました。

ここに、
天津御子の命は、
皇祖神(こうそしん) である
天邇芸志国邇芸志天津日高日子火之邇々芸の命(あめにぎしくににぎしあまつひこひのににぎのみこと)、
天邇芸志国邇芸志天津日高日子火々出見の命(あめにぎしくににぎしあまつひこほほでみのみこと)、
天邇芸志国邇芸志天津日高日子波限建の命(あめにぎしくににぎしあまつひこはぎたけのみこと)を
斎き(いつき)、敬い、祝って祀りました。

さらに、
下津榛原(しもつはりばら)の小野(おの)にも、
日高日子波限建の命の 二代目(にだいめ) から、
七十二代目の皇ら命(すめらみこと) までを、
すべて合わせて、
同じように 斎(いつ)き祀りました。

このように、
天津御子の命は、
皇祖の神々を敬い、
歴代の皇ら命を祀ることで、
国の繁栄と安泰 を祈り、
人々の幸福を願われたのです。
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41,2
-------------
こに、天津御子の命(あまつみこのみこと)は、
神の御進田(みいくた) を作ろうとお考えになり、
まず 井戸を掘る ことをお命じになりました。

この時に掘られた井戸の場所を
「みづで(神聖な水の場所)」と呼ぶようになりました。

そして、天津御子の命は、
自ら 側禰の上(そばねのかみ) たちと共に
田植えを始められました。

その時、天津御子の命は、こうおっしゃいました。

「この稲田を植えるとき、もし静かに植えたならば、
その稲の実りも静かで少なくなってしまう。
また、ばらばらに植えたならば、
その稲の実りもばらばらに散ってしまい、豊かに実ることはない。

だからこそ、側禰の上たちよ、
私の歌に合わせて、顔を美しく輝かせながら歌い、
喜びに満ちて植えよ!」

そうして、天津御子の命は 歌を詠みながら 田植えをなさいました。

(天津御子の命の歌)

「八束穂(やつかほ)に 撓(たわ)び垂れてよ
八百稲千稲(やおいねちいね) 八束穂に
穂に穂々に 八束穂に
撓び垂れ(とうとうたらり
たらり とうとう)」

この歌をもって、
秋に豊かに実る稲が、
たわわに実り、八束穂となって、
実り多き年となることを祈ったのです。
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41,3
-------------
ここに、国々や島々から 人々が集まり、
数千万もの青人草(あおひとくさ:民衆)が騒ぎ立て、
四方から参上し、大勢で集まってきました。

そこで、
東側の人々の集まり(屯れ・むらがり) の前に、

中臣春武(なかとみのはるたけ)の命
息長於賀玉(おきながのおがたま)の命
御年栄男(みとしさかお)の命
この三柱(みはしら)の神々が立ち向かい、迎えました。

また、北側の人々の集まり の前には、

中臣道之臣人(みちのおみひと)の命
天懸豊人(あまかけとよひと)の命
明玉神座(あけたまかみくら)の命
この三柱が立ち向かい、迎えました。

また、南側の人々の集まり の前には、

斎部差別(いんべのさべつ)の命
金山背之隈(かなやませのくま)の命
御鉾蘇我(みほこそが)の命
この三柱が立ち向かい、迎えました。

また、西側の人々の集まり の前には、

太玉大富(ふとたまおおとみ)の命
弥都波若糸(みつはわかいと)の命
厳矢眞添(いずやまそえ)の命
この三柱が立ち向かい、迎えました。

さらに、それぞれの屯れ(集まり)の前に、
以下の神々が、それぞれ向かい合い、立ちました。

表春楮緒玉(おもてはるかじのおたま)の命
速玉山田(はやたまやまだ)の命
大屋岩室(おおやいわむろ)の命
沖疎瀬上(おきそせのかみ)の命
塩土房(しおつちのふさ)の命
秋津峡山(あきつかやま)の命
佐須良蜂窪(さすらはちくぼ)の命
底土照玉(そこつちてるたま)の命
手置棚雲(たなおきくらくも)の命
生玉埴香(いくたまはにか)の命
積羽檜葉男(つみはひばお)の命
波限斎井(はぎりのいの命
香具山高主(かぐやまたかぬし)の命
山咋細道(やまくいほそみち)の命
水分角別(みくまりつのわけ)の命
久比奢若草(くひさわかくさ)の命
弥玉山之緒(みたまやまのを)の命
山津見露島(やまつみつゆしま)の命
目一箇堅魚(めひとつかたうお)の命
須勢理御砂(すせりみさご)の命
大土山彦(おおつちやまひこ)の命
香立楯彦(かぐたてひこの命
少名厳苗(すくなかむなえ)の命
生玉貝寄(いくたまかいよせ)の命
三降天狭(みふるあまさ)の命
事勝江曵(ことかつえびき)の命
足羽鎌輪(あしわかまわ)の命
笹津九十九(ささつくじゅうく)の命
これらの神々は、
それぞれの屯れに向かって立ち、問いかけました。

すると、そこに集まった 多くの民(現人) が答えました。

「私たちは皆、
国々の工人(たくみびと)や、山狩人(やまかりびと)です。
しかし、今ここに大勢集まったのは、
特に何か命令があったからではありません。

自らの意志で、得物(工具や道具)を持って、
天津御子の命(あまつみこのみこと)に祈り奉るために参りました。

その理由は、
私たちは、天津御子の命と臣の上たちの住まい(家)を見たのです。

その家の造りを見て驚きました。

柱は 掘っ立て(しっかり基礎がない) で、
藁縄(わらなわ)で結び縛り つけられており、
板は薄く、
屋根は藁草を重ねて葺いた だけのものでした。
その建物の姿は、
とても低く、狭く、粗末 で、
我々民(現しき青人草)の家よりも、遥かに劣っているのです。

それを見て、
まことに悲しく、見るに忍びないほど穢れている と感じました。

そのため、
私たちは皆、工人(たくみびと)としての仕事を持つ者ですが、
これほどまでに貧しいお住まいを見てしまった以上、
黙っているわけにはいきません。

それに、
天津御子の命(あまつみこのみこと)が、
国を治める大君であるのに、
その御座す御殿がこのように粗末なのは、
まことに畏れ多いことです。

また、臣の上たちの御殿すら立派ではなく、
このような状態で 御代を過ごしてしまえば、
天津罪(あまつつみ:神への罪)や国津罪(くにつつみ:国の罪) が
多く生じるでしょう。

だからこそ、
我々はここに集い、皆で訴えているのです。

この言葉を、
東西南北それぞれの屯れ(集まり)の人々が、皆一様に口にしました。

そこで、臣の上たち(家臣の代表たち)は、
天津御子の命(あまつみこのみこと)に、
この訴えの内容を詳しく報告しました。
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41,4
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ここに天津御子の命(あまつみこのみこと)が告げられました。

「工人(たくみびと)や山狩人(やまかりびと)たちの忠誠心は素晴らしい。
その心意気には涙が出るほどだ。

しかし、今のこの状況で、私が宮を造ることはできない。

なぜなら、この国内には災いをもたらす者がいるのだ。
それが長脛彦(ながすねひこ)であり、
彼が悪事を働くせいで、国全体が非常に貧しいのだ。

だからこそ、この状況で宮を造ることは、
天津神(あまつかみ:天の神々)に対する罪となる。
そのため、やはり良くない のだ。

それゆえ、皆に詳しく説明し、
千萬(ちよろず)の工人たちを褒め讃え、
それぞれの国へと帰らせてやるのがよい。

そうおっしゃられました。

ここで、臣の上たち(家臣たち)は、
千萬の工人たちに天津御子の命の言葉を伝え、
納得するよう説得しました。

しかし、工人たちはこれを聞き入れず、
なおも集まったまま動こうとしませんでした。

そこで、天津御子の命は、
御妃(みきさき)の命と共に、
自ら炊事を行い、
千萬の工人や山狩人たちに直接語りかけました。

「皆の気持ちはよくわかる。
どうか心を静め、安心してほしい。」

そう宥(なだ)め、撫でるように諭されましたが、
工人たちはなおも聞き入れず、動こうとしませんでした。

そして、「もしこの許しが得られないのなら、
千萬の工人や山狩人たち全員、
ここで飢え死にするしかない!」
と叫び、

涙を流して悲しみ、
悶(もだ)え苦しみました。
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41,5
-------------
ここに天津御子の命(あまつみこのみこと)は、
家臣たちと共に宣(の)べられました。

「山狩人(やまかりびと)や工人(たくみびと)たちの
真心こもった忠誠心は、明らかである。

もし、これを無に帰してしまえば、
国津神(くにつかみ:地上の神々)に対する罪となる。

だから、彼らの願いを退けることはできない。」

そう言われて、すべての工人たちに
祝福の言葉をかけ、許しを与えられました。

すると、千萬(ちよろず)の人々、
山狩人、工人たちは、これを大いに喜びました。

すぐさま山狩人たちに命じ、
伊勢津の木曽山から巨大な木材を伐り出しました。

その木材を、狭い谷や川を通って運び、
さらに、日下根(くさかね)の大山の木々も伐採しました。

切り出した材木を、
人々は車に載せて背負い、
または担いで運び寄せました。

山狩人たちは、
基礎となる石をしっかりと固め、
短期間で準備を整えました。

そして、天津御子の命のための大宮(おおみや)が、
千木(ちぎ)が天に届くほどの壮麗な建築となりました。

柱は太く、高くそびえ立ち、
屋根は桧(ひのき)の皮を何層にも重ねて二尺の厚さとしました。

屋根の端には、
足を踏みしめるための枠を並べ、
地面には広く、長く基礎を固めました。

門の屋根は高く掲げられ、
三本の円柱は、朱の漆で塗られました。

上部の貫(ぬき)は長く通し、
下部の貫は削り整えました。

上部の笠木(かさぎ)は黒漆で塗り、
立派な門として仕上げました。

さらに、八本の脚枠を切り組み、
しっかりと組み上げました。

家臣たちは、殿(との)造りを
八百もの建物におよび、
短期間で城を造り固めました。

最後に、建物の内外を清め、
丁寧に掃き清めました。

こうして、宮殿が完成し、
神聖な柱を祀るために、
沖疎瀬々之上(おきそせそせのかみ)の命(みこと)
御齢(よわい)百七十四歳、

塩土八雲根(しおつちやくもね)の命、
御齢二百三歳の二人が儀式を執り行いました。

柱ごとに、玉粟(たまつぶ)の飯と粥を盛り、
祝詞(のりと)を唱え、
手を打ち鳴らし、
柝鈴(たくすず)を打ち鳴らしました。

そして、高らかに祝詞を歌いました。

「築き上げられたこの堅固な柱よ、
千萬の柱、
揺るがぬ柱、
清らかな柱、
輝かしい柱、
円満なる柱、
滑らかな柱、
神聖なる柱、
美しく造られ、
神々しく光り輝く柱よ!」

ここに、天津御子の命は、
御妃(みきさき)の命と共に、
宮殿を見渡し、
喜ばれて言いました。

「広々として、ゆったりしているなあ!」

こうして、この壮麗な宮殿は完成し、
「わたまし(渡坐し)」と称えられるようになりました。
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41,6
-------------
この吉き日(めでたい日)に、

臣(おみ)の上たち(家臣たち)は皆、
輪髻(わげ)を結び、前髪を押し整えました。

そして、御冠(みかんむり)を戴き、
衽(おくみ:長い衣の前身頃)をまとい、
玉飾りのついた広い袖を着ました。

手には貴重な玉(装飾用の宝玉)を持ち、
腰には礼扇(れいせん:儀式用の扇)を差し、
立派な太刀を佩(は)きました。

また、衽を長く引きずるようにして、
厳かに歩みました。

一方で、夫人(ふじん)たちは、
髪をまとめて斎(い)み整え、
黄金や白銀の花のような装飾をつけた
輪飾りの冠をかぶりました。

家臣たちも、夫人たちも、
新宮(しんぐう)の完成を祝い、
盛大に舞いを奉納しました。

皆が共に祝宴を開き、
歌い、舞い、
男たちは笛や太鼓を奏で、
女たちは琴や竹琴を弾きました。

その音色はとても清らかで美しく、
調和のとれた響きとなり、
宮殿の中に朗々と響き渡りました。

すると、山で舞う鶴や、
水辺で踊る亀たちも、
まるで祝いに集まったかのように
御庭へとやってきて、
楽しげに舞い、喜びました。

ここに、棚機網引(たなばたあみびき)の命、
その妹である網引姫(あみびきひめ)の命、
紡岐真田(つむぎのまただ)の命、
その妹である真田姫(まただひめ)の命、
苫彦安輪(とまひこのやすわ)の命、
その妹である安輪姫(やすわひめ)の命、
活津高根(いくつたかね)の命、
その妹である高根姫(たかねひめ)の命、
これらの神々は集い、議論しました。

そして、八咫烏(やたがらす)が
天へ昇る姿をかたどり、
楮布(こうぞぬの)を用いて作り、
漆で固めたものを冠としました。

また、麻布(あさぬの)を用いて、
袖が太く、前と後ろが重なるような
礼服(れいふく)を作りました。

その袖も袂(たもと)も、
二尺(約60cm)の幅があり、
胴の長さも同じ二尺ほどでした。

それを襲(かさね)のように重ね着し、
真襟(まえり:正装の襟)は折り曲げ、
帯に収めました。

さらに、袴(はかま)も同じく、
裾を長く垂らして仕立てました。

こうして、この衣装を完成させ、
天津御子の命(あまつみこのみこと)へと献上しました。

天津御子の命は、それを見て、
「なんと美しく、立派である!」
と、大いに称賛されました。

そして、次のように命じられました。

「この衣装を、大伴(おおとも)の長(おさ)たちが
着るべき正装とする。

また、我が日本(ひのもと)の現世の民たちの
正式な礼服とする。

しかし、日常の衣服については、
袖をつけ、袂(たもと)は二尺の幅とし、
身丈もその長さに合わせよ。

そして、髪型については、
輪状に結んで、
その髪を垂らすようにせよ。」

こうして、新しい服飾の規定が定められました。
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41,7
-------------
天津御子の命(あまつみこのみこと)は、
赤土桜(あかつちさくら)の命、
波限由比(はぎりゆい)の命、
水分琴彦(みくまりことひこ)の命たちに、
お命じになりました。

「国々の大河の曲がりくねった場所、
また、その合流する小川の曲がった場所、
そして、そこにつながる水の流れの底に
船を造らせよ。

そして、交易(商業)の便益(べんえき)を
より良く整えよ。」

と、お命じになりました。
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41,8
-------------
ここに 天津御子の命(あまつみこのみこと)は、
「天の益人(ますひと)の神の教え(訓り)と、
地上の教え(国津訓り)に従って
務めを果たすようにせよ」 と仰せになり、

さらに 子供を育てるための制度を定められました。

若くして夫婦が別れてしまった場合、
妻を失った男には、
新たな妻を迎えさせること。

もし子供がいる場合には、
その子を「攘ら屋(あがらや)」(育てる施設)で育てさせること。

この育て役の女性たちは、
夫を持たず、
月経のない女性たちの中から選び、
攘ら屋に集めて、その務めを担わせる。

もし子供が生まれて泣き出したならば、
まず「胞衣(えな)」(胎盤)と「紐」(へその緒)を切り、
生まれたばかりの子を温かい湯で清らかに洗い、
また胞衣と紐も清らかに洗い、
茅草(ちがや)に包んで、
深く掘った地に清らかな土をかぶせて埋めよ。

そうしなければ、その命は短くなるであろう。

また、生まれた子が八日を無事に過ごしたならば、
その頭の産毛を剃ること。

さらに三十六日を過ぎたならば、
剃ったままにして毛を生やさず、
三年の「神嘗(かんなめ)」のときには、
頭の中央に毛を招き生やし、
五年になれば人として立つことを教え、
七年になれば心を養い、
九年になればしつけを教えよ。

このように力を育てていき、
十一歳になれば、大人の習わしに従わせること。

また、二十五歳になれば、女子を迎えて家庭を持たせ、
三十歳になれば家業を理解させ、
男であれば五十歳から公の務めを担わせること。

そして、年老いて務めを終えたならば、
過去の教えに従って丁重に葬るべし。

それは、国々や島々のすべての青人草(あおひとくさ:人々)が
永く正しく務めを果たし、
天津御子の御世を栄えさせるための務めなのだから」

と 仰せになりました。

-------------
41,9
-------------
また、童(わらべ)は三歳から十一歳になるまでに、
まず「礼儀作法」を学び習うべし。

その作法とは、
人と会ったときには、
まず「手を打ち鳴らし(拍手し)、
かがんで(蹲み)から言葉を交わせ」。

また、毎日の三度の食事の際には、
必ず手を打ち鳴らし(拍手し)、
拝んでから食べよ。

年長者には敬意を持ち、
祖先を敬うようにせよ。

天津神(あまつかみ=天の神々)や
国津神(くにつかみ=地上の神々)に対しても、
敬意を表し、拝むことを忘れるな。

しかし、若者に対しては、
特別な礼をしなくてもよい。

それよりも、
自らの「生業(なりわい)」に励み、
あらゆる礼儀作法を学び、
身につけるようにせよ。

と、天津御子の命は仰せになった。
-------------
41,10
-------------
ここにおいて、この夏は非常に暑く、
例年を越えて(いつも以上に)、
多くの人々が「下痢の病(糞放りの病)」にかかり、
多くの人々が命を落としてしまった。

そこで、天津御子の命は、
訓示として次のようにお告げになった。

「この暑さをしのぐには、
まず大きな銅鑼(どら)を鳴り響かせ、
佐世(させ)の木の葉を頭にかざせ。

老いも若きも、
男も女も、
皆そろって手を打ち鳴らし、
歌の調子に合わせて和やかに踊れ!」

と、天津御子の命は告げられた。

人々がこのように実践すると、
病は消え去り、
再び元の穏やかな日々が戻った。

これこそ、昔の時代より伝わる「教え」である。
-------------
41,11
-------------
このとき、天津御子の命は、
「四年目の春、今月の満月の日に、
榛原(はりばら)の大宮にて、
大神の御祭りを執り行おう」
と仰せになり、
御祭りの責任者を定められた。

中臣春武の命、中臣道之臣人の命、表春楮緒玉の命、
この三柱の神を、天津祝詞(あまつのりとごと)を唱える長人(おさ)とし、
それに添える言葉を奉る者として、
八十人の臣が、
左手に五人ずつが和幣を持ち、
中央にいる二人は鈴を振り、
さらに中央の二人は別の鈴を鳴らし、
中央の二人は貴い玉を手に持ち、
また中央の二人は笛を吹き、
中央の二人は鼓を打ち、
中央の二人は槽(うてな)を叩き、
こうして大神をお迎えし、
悪しきものを祓い清めた。

また、
斎部差別(いみべさしわけ)の命、太玉大富(ふとたまおおとみ)の命、斎部種越(いみべたねこし)の命、
この三柱の神を太御幣(おおみてぐら)の首(おさ)として、
八十人の臣が、それぞれの役割に従い、
一部の者は火を扱う役目、
一部の者は供え物を調理する役目、
一部の者は衣を整える役目、
一部の者は万物の道具を整える役目を担った。

また、
思金村立の命、息長木莵住の命、弥都波菱形の命、埴安種活の命、燿火麻知部の命、
天懸利切の命、国懸魂迎の命、金山瀬之隈の命、
これら八柱の神を、罪や穢れを祓う役目とし、
彼らのもとに百八十人の人々が付き、
笛を吹き、鼓を打ち、
銅鑼を鳴らし、鈴を振り、
さらに顔を隠す仮面を被り、
醜い姿を真似て、
悪しきものを追い払う儀式を行った。

この神楽の目的は、
「豊道の原(とよみちのはら)の美しき秋の瑞穂(みずほ)の国において、
国々、島々の人々が犯した罪を、
この神々が身代わりとなって受け持ち、
神直毘(かみのなおび)の命、大直毘(おおなおび)の命の力によって、
悪しきものを清め、
災いを防ぎ、
幸をもたらすため」
とされた。

また、神々が喜ばれる清らかで厳かな神楽は、
八種の音色が調和し、
華やかに奏でられ、
神々が憑依し、
歌い舞い、歓びを表すものであった。

八種の音色とは、
①竪笛(たてぶえ)、
②横笛(よこぶえ)、
③締め鼓(しめつづみ)、
④張り銅鑼(はりどら)、
⑤黄金の柝(きぬた)、
⑥十二弦の琴、
⑦三弦の竹琴(たけごと)、
⑧空の槽(うてな)。

神楽を舞う少女たちは、
髪に油を塗り、艶やかにし、
赤い花を飾り、
黄金や白銀の輪飾りを被り、
眉毛を整え、
白粉(おしろい)を顔と首、背に塗り、
頬には赤い花の粉をつけ、
手には白粉を散らし、
足には白布で作った足袋を履き、
さらに四重の藺草(いぐさ)の足袋を重ね、
その緒は朱色に染められ、
袴(はかま)は深く折り畳んで整えられた。

少女たちは、
右手に御幣(みてぐら)、
左手に斎鈴(いみすず)を持ち、
神がかりの舞を舞い、
清らかに、潔く、歓びをもって奉仕した。

こうして大宮は華やかに飾られ、
幕が張られ、
大幡(おおはた)、八幡(やはた)、
伊吹(いぶき)、中吹(なかぶき)、垂れ幡(たれはた)などが立ち並び、
盛大な祭りが催された。

この祭りには、
あらゆる国々、
あらゆる島々の人々が、
老いも若きも、
数えきれないほど集まり、
拝み奉った。

人々が集まる様子は、
まるで山野が海のように広がるほどであった。

天津御子の命は、
この光景をたいそう喜ばれ、
御妃・五十鈴姫の命を、
御祭りの斎(いわい)の女(巫女)とされた。

そして、五十鈴姫の命が大床に座していると、
神懸かり(神が降臨)し、
神託を告げられた。

天津御子の命は驚き、
「これはいかなる神の御言葉なのか」
と尋ねた。

神託は、
「汝が招きまつる皇祖神(すめらおやのかみ)なり」
と告げた。

そこで、
白い桧(ひのき)で作った三つの御輿屋(みこしや)を用意し、
「この中へお入りになりますか?」
と問うた。

しかし、
返答はなく、
眠るように沈黙された。

そこで、
漆(うるし)で飾られた黄金の御輿屋を用意し、
再びお迎えすると、
「これが良い」
とのお告げがあり、
神はその御輿屋に鎮まられた。

天津御子の命は、
この御輿屋を大宮の奥深くに安置し、
神を祀った。

すると、
御輿屋は大きく揺れ動いた。

高津上(たかつのかみ)、明津上(あかつのかみ)は、
御輿屋を外へ運び出すと、
群衆が手を伸ばし、
御輿屋を仰ぎ見ながら走った。

御輿屋は東西を問わず駆け巡り、
その後を人々が幡(はた)、
鉾(ほこ)、
楯(たて)を持って追いかけた。

国中が響き渡るほどの歓喜となり、
清らかで荘厳な祭りとなった。

三日三晩続いた祭りの終わりに、
天津御子の命は、
御輿屋を吉野の先の宮へ納め、
一夜を過ごした。

翌朝、
御輿屋を進めようとしたが、
三つの御輿屋は岩のように動かなかった。

天津御子の命は夢に見た。
「私も御輿屋とともに立ち並び、
三つの御輿屋を共に迎えよう」
と。

この夢を受け、
天津御子の命は
自ら御輿屋に入られ、
三つの御輿屋を迎え入れると、
御輿屋は再び動き出し、
大宮へ帰還された。

天津御子の命、御妃、
高津上、明津上、臣の上たち、
すべての姫たちが集い、
八日八夜にわたり、
歌を詠み、舞い、
琴や竹琴を奏で、
遊び戯れた。

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41,12
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このとき、天津御子の命は、ある日、
御子たちである
手研耳(たぎしみみ)の命、日子八井耳(ひこやいみみ)の命、神八井耳(かみやいみみ)の命、
この三柱の御子たちを集め、こう言われた。

「汝たちは、それぞれ何の家業をなそうと考えているのか?」

そう尋ねると、
手研耳の命が答えて申し上げた。

「私は薬師(くすし)となり、
東国の現しき青人草(あおひとぐさ=人々)に病が起こらぬようにし、
また病にかかった人々を救い、
できる限り助けたいと願っております。」

これを聞いて、
天津御子の命は、

「それは良いことだ。」

とおっしゃり、

「すぐに陸奥(みちのく)の国の菊多山(きくたやま)に、
大宮を建て、
その地の覇精高(はせたか=統治者)の上(かみ)となるがよい。」

と、お命じになった。

次に、日子八井耳の命が答えて申し上げた。

「私は榛原(はりばら)の大宮において、
斎(いわ)いの上(かみ=祭祀長)となりたいと考えております。」

これを聞いて、天津御子の命は、

「それも良いことだ。」

とおっしゃり、

「すぐに鳥見山(とみのやま)のほとりに、
大宮を太く立派に建て、
斎き(いわい=祭祀)を司る上(かみ)となるがよい。」

と、お命じになった。

次に、神八井耳の命が答えて申し上げた。

「私も薬師(くすし)となり、
西国の現しき青人草(あおひとぐさ=人々)に病が起こらぬようにし、
また病にかかった者を助け、
人々を慈しみ、恵みを与えたいと考えております。」

これを聞いて、天津御子の命は、

「それも良いことだ。」

とおっしゃり、

「すぐに高千穂(たかちほ)の阿蘇山(あそやま)に、
大宮を太く立派に建て、
その地の覇精高(はせたか=統治者)の上(かみ)となるがよい。」

と、お命じになった。
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41,13
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こで、天津御子の命は、
中臣道之臣人(なかとみのみちのおみひと)の命、
斎部足柄(いむべのあしがら)の命、
思金蘇我之男(おもいかねのそがのお)の命、
須勢理田戸立(すせりのたとたち)の命、
別雷守山(わけいかづちのもりやま)の命、
岩柝百手弓(いわたくのももてゆみ)の命、
また、その他の五柱の臣の上たちを召し寄せ、
こうおっしゃった。

「私は、去りし世の訓(のり=教え)を思い、
神の訓え(のり)を受けたままに、
天の祭り、国の祭りに仕えることについて考えている。
その形(ありさま)は、
天の功(こう=天の働き)、国の功、家の功によるものである。

だからこそ、
並上(ならびのかみ=中位の官位)たちは、
五十歳になれば「任(しもべ)」とし、
六十歳になれば「厳上(いずみのかみ)」とし、
七十歳になれば「清津上(きよつのかみ)」とし、
八十歳になれば「明津上(あかつのかみ)」とし、
九十歳になれば「明津上(あかつのかみ)」とする。

このように、現しき青人草(あおひとぐさ=人々)すべての
御座(みくら=地位・立場)を定め、
人々を敬い、愛し、助け合うようにせよ。」

ここで、大高津上(おおたかつのかみ)たちは、
天津御子の命の言葉を受けて、こう申し上げた。

「これはまことにそのとおりでございます。」

そこで、天津御子の命は、
高津上(たかつのかみ)、明津上(あかつのかみ)、
清津上(きよつのかみ)、並上(ならびのかみ)、
厳上(いずみのかみ)たちとともに議論を重ね、

「神の訓え(のり)を心に伝え、
君への忠誠を誓い、
祖先を敬い、
老いた者を大切にし、
親族や家族を愛し、
常に世のために尽くすことが大切である。」

と、告げ、教えを下された。

これにより、天津の功(あまつのいさおし)、
国津の功(くにつのいさおし)、
家津の功(いえつのいさおし)は、
すべて人々の訓え(おしえ)とされることになった。

そこで、天津御子の命は、
国を七つの道に分け、
こう告げられた。

「大御田族(おおみたぞく=農民)は、
青人草(あおひとぐさ=人々)が食べて生きるための
種津物(たねつもの=作物)を作り出す、
国の功の最たるものである。
だから、天津神(あまつかみ)、国津神(くにつかみ)の
大宮を造り、
御栄(みさかえ)の神を祭りに仕えさせよ。

また、それぞれの家でも、日ごとに神を祭り、
また家の祖先を祀り、
その隠り場(かくりど=墓や祖霊の祭場)で、
神について学ぶようにせよ。」

「また、工人(たくみびと)は、
天津神の木工業に仕え、
大御田族の便(たより=生活の助け)となるようにし、
日々、技を磨きなさい。
その作物に合わせて商売をしなさい。」

「また、鍛冶人(かじびと)は、
同じように鍛冶の業に励みなさい。」

「また、商人(あきびと)は、
村々を巡り、
物を運び、
足らぬものを補い、
余るものをほかの国に運び、
不足しているものを補い合いなさい。」

「また、海漁人(あまびと)は、
海の幸をとり、それを生業としなさい。」

「また、山狩人(やまがりびと)は、
山の幸をとり、それを生業としなさい。」

「また、物人(ものびと=馬や牛の世話をする者)は、
大宮(おおみや)に仕え、
牧山の牛や馬を育て、大切に養いなさい。
これらを六つの現人(うつしびと=働き手)に分けて、
それぞれの役割に仕えさせよ。」

「この七つの職業の者たちは、
去りし世の神の訓え(のり)を
決して忘れてはならない。
また、それぞれの立場を、
人々はしっかりと考え、大切にするように。」

こうして、天津御子の命は、
神の訓えを定められた。

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41,14
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こうして、天津御子の命は、
現しき青人草(あおひとぐさ=人々)それぞれに対し、
この「七道(しちどう=人生の節目)」を渡るように、
訓(のり=教え)を定められた。

「七歳になれば、力をつけるための修行を始めなさい。」

「十五歳になれば、仕事や技術を学びなさい。」

「二十歳になったら、自立し、一人前になりなさい。」

「二十五歳になったら、妻を迎え、結婚しなさい。」

「三十歳になったら、家を持ちなさい。」

「四十歳になったら、人々を教える師となりなさい。」

「五十歳になったら、村を治める村主(むらぬし)となりなさい。」

「六十歳になったら、家族を統べる戸主(このし=家長)となりなさい。」

「七十歳になったら、地域を統べる郷主(さとぬし)となりなさい。」

「八十歳になったら、国を治める国主(くにぬし)となりなさい。」

「九十歳になったら、臣の上(おみのかみ=高官)となりなさい。」

こうして、天津御子の命は、
それぞれの年齢に応じた役割を果たすよう、
言依(ことよさし=命令)を下された。

そして、こう告げられた。

「賞賛されるのは、年齢を重ね、正しく生きる者である。
しかし、罰せられる者には、五つの過ちがある。」

「一つ、謀りごとをし、悪事を働く者は、その首を斬れ。」

「二つ、他人のものを盗む者は、左右の目をすべて抜き、
一生、子取り男(ことりおとこ=奴隷)とせよ。」

「三つ、姦淫(かんいん=不義密通)を行う者は、
鼻を削ぎ落とし、子取り男とせよ。」

「四つ、あちこちに悪事を漏らす者は、
耳を削ぎ落とし、子取り男とせよ。」

「五つ、天の功(あめのいさおし=神の教え)と
国の功(くにのいさおし=国の掟)に従った者を
正しく評価し、賞賛しなさい。」

こうして天津御子の命は、
これらの教えを定められ、
「この教えを国々に広く知らせ、
広く撒き伝えなさい。」
と、命じられた。
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41,15
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省略
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41,16
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ここに、天津御子の命は、
天火之明玉饒速日の命(あめのほのあかるたま にぎはやひ のみこと)、
天眞幸守宇賀之御魂の命(あめのまさきまもり うがのみたま のみこと)、
天之御衣守棚機の命(あめのみそまもり たなばた のみこと)、
天之御食守御根稲依の命(あめのみけまもり みねいなより のみこと)、
天之積羽足坐八重事代の命(あめのつむはたあしいます やえことしろ のみこと)、
天之宮知坐萬手置日の命(あめのみやしります まんたおきひ のみこと)、
天之鍛冶種々坐金山の命(あめのかぬちくさぐさ います かなやま のみこと)、
天之狩男守八津之山津見の命(あめのかりおまもり やつのやまつみ のみこと)、
天之海御底坐彦海津見の命(あめのうみそこ います ひこ うみつみ のみこと)、
天之剣術訓武功の命(あめのつるぎじゅつ くんぶこう のみこと)、

これらの十柱の神々(十人の神)は、
それぞれが、天の御足り載らす磐船(あめのみたりのせらす いわふね)に乗り、
秋津根の山へ天降り(あまくだり)された。

その天降りされた場所を、
今は 磐船山(いわふねやま) と呼んでいる。

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41,17
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そこで、ここに 天津御子の命(あまつみこのみこと) は、
神酒(みわ)を奉り、畏(かしこ)みながら、
天津の大御言(あまつのおおみこと) を慎み敬い、
祈りを捧げられた。

すると、天津神たちはこうお告げになった。

「天の祭り、国の祭り、いと良く行われている。
そこで、大きな船を造り、遠い海の上を走らせて、
現人(うつしびと)たちの商いを便利にしなさい。」

そして、さらに告げられた。

「まず、大きな船を造れ。
その船の中央に穴を開け、
そこに 八重の輪車(やえのわぐるま) を取り付けるのだ。
また、船の舳(へさき)を高くし、
そこに六寸(約18cm)の口の 水招ぎ(みずまねぎ) を突き立てよ。
そして、その口から樋(とい)を通し、
水招き人(みずまねきびと) を四人置き、
八重の輪車から車を移し、それを三つの手に分けて操れ。」

さらに続けて、

「そして、船の面舵(おもかじ)、取舵(とりかじ)に、
大きな櫂(かい)を突き立て、
片帆(かたほ)を張り、
百五十人を配置せよ。

また、櫂の手輪(かいのてわ)に、
この車の仕掛けを取り付け、
大きな櫂を一息で押し返せば、
船は 一日に百里(約400km) を進むことができるであろう。

たとえ雨が降ろうとも、風が吹こうとも、
この船は迷うことなく進むであろう。」

と、お告げになった。
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41,18
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また、天津御子の命(あまつみこのみこと)は言葉を上げておっしゃった。

「水津田(みずつた)の備えとして、
大山や小山の水を招かなければ、成り立たない。

したがって、その山や野に水を行き渡らせるには、
天津水分(あまつみくまり)の神 の秘められた言葉を聞いて、
山野を駆け巡り、
水の湧き口となる良い場所を見つけねばならない。

そのために、楮布(こうぞぬの)で作った 招き手(まねきて) を
その場所に差し立てておき、
翌朝、その色を確認せよ。

もしも火気があれば、その場所には水は無い。
もしも水気があれば、そこには水がある。
だから、この方法を用いて調査せよ。」

さらに続けておっしゃった。

「もし、水の無い場所で水を招こうとするならば、
大きな峡谷(きょうこく)、小さな峡谷に
深く穴を掘り通し、
その上に薪(たきぎ)を横に積み重ね、
火をおこして燃やせ。

そして、水分の神 の秘められた言葉を唱えながら、
火を燃やすごとに 一本の薪を投げ入れよ。

そうすれば、三日間のうちに天の真水(まみず)が授けられ、
その掘った井戸に満ち足りるであろう。」

また、次のようにおっしゃった。

「さらに、水を呼び寄せる秘められた言葉を唱え、
薪を投げ入れ続けて 十三日間、十二夜 経つと、
水が湧き出るであろう。」

こうして、水津田(みずつた)の備えを整えなさい。」

と、お命じになった。

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41,19
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ここに、穴門(あなと)の国が穏やかでなくなっていた。

そこで、この国の主である 玉浦の四郎(たまうらのしろう)、齢三十一歳 が、
穴門の統治者(建)である香立橋男の命(かたちはしおのみこと) を、
天津御子の命の 訓(おしえ) に背かせ、
若年の者を任命し、その地位を与えた。

これは 国主である玉浦の四郎が悪しき心を抱き、
香立橋男の命を 誘惑し操った ためであり、
その結果、様々な 奸計(たくらみ)が次々と起こり、
国の中は 穏やかでなくなってしまった。

そしてついには、国の現人(うつしびと)たちが騒ぎ立ち、
争いの場となった攘(あら)ら屋の外側を囲み、
集まって挑みかかる争いに発展した。

この騒動の知らせが 宮中(みやうち)に届いたとき、
天津御子の命は深く心を悩ませ、
すぐに 経津屋篠(ふつやささの)の命 を呼び、
命じられた。

そこで、経津屋篠の命は、大伴の上たち十余名を率いて、
穴門の大島に渡り、船を泊めた。

彼らは、その 山の頂にある攘ら屋に向かって駆け上り、
片堀(かたぼり)の場所から 様子をうかがった。

すると、まるで真実を語るかのように、
攘ら屋は 中心から幾重にも巻かれ、
内部へ入る道すらふさがれていた。

そこで 彼は手に持った扇を高く掲げ、
その上に描かれた 日の神の御姿を示して打ち払うと、
人々は皆 騒ぎながらも、地に伏して動かなくなり、
一切の反抗がなくなった。

そこで 経津屋篠の命は、攘ら屋の中に入り、
騒ぎ立てる人々の話を聞いた。

そして、その場の 任命された者たちを捕らえ、
全員の両目を抜き取る者、
片目を抜き取る者、
鼻を削ぎ落とす者、
耳を切り落とす者として、
子取り男(犯罪者の贖罪として労役に就く者)にした。

そして 香立橋男の命を車の中に閉じ込め、
そのまま 引き立てて処刑のために連れ去った。

その後、陸奥(みちのく)の国の統治者である
明玉湯津の命(あけたまゆつのみこと)が、
この報告を受けて 宮に参じ、天津御子の命に申し上げた。

そして、その場において
黄金の玉がいくつも、まばゆく輝くほどに凝り固まり、
□□□(文章欠損)
うまべならく□□□□(文章欠損)

上津文 四十一の綴り 完結